終戦記念日の夏空

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 ■曇天や雨天続きだった北京の空が、珍しく夏色に晴れわたった。8月15日、毎年この日の空の色は、日本にいても、世界中、どこにいても、ひときわ澄んでいる気がする。母は小学校五年のとき、和歌山県湯浅村で終戦を迎えた。「あの日の空は、真っ青だった」。毎年、終戦記念日になると、聞いてもいないのに、そんなことをつぶやきながら空を見上げたものだ。

 

 ■玉音放送を聞いても、意味がよく分からなかった母。村の大人たちが涙にくれている様子をみて、もう戦争が終わったときいて、ただ不安で胸が締め付けられるようだったという。

 

 ■午後、空を見上げると、真っ青な空を横切ってB29が2機、海に向かってとんでゆく。「もう爆弾おとさんのかなあ」。そう思いながら、眺めていた戦闘機がかなたに消えたとき、はじめて、戦争は終わったんや、と納得できたという。

 

 ■十年ほど前の8月15日。こんな話をしたこともあった。好きだった近所のおにいちゃんが、満蒙開拓少年義勇軍として村中に見送られて出征していった。「今思うと、あのこ、まだ15歳くらいやったんやなあ。大人の男の顔していたけど。あんた記者やねんから、あのこがあれからどうなったか、調べられへんか?」。

 

 ■名前すら覚えていない初恋の人をさがせ、と?無茶を言う、と言い返すと、「そうかあ」と空を見上げていた。視線の先には電灯がぶら下がった天井しかなかったけれど、母の目にはあの夏空が広がっているのだ、と思った。

 

 ■終戦記念日には、母が必ず空を見上げるものだから、私までこの日は、空を見上げるくせがついた。雨だろうと、曇天だろうと、スモッグでかすんでようと、今では私の目にも、コバルトの空を横切るB29と、それを見上げるおかっぱ頭の少女の幻影を見ることができる。

 

 ■きょう、私と同じように空を見上げた人はきっといっぱいいるだろう。見上げた空には、親から、あるいは祖父母から聞いた終戦の記憶が映し出されているだろう。そう思うと、ひとりでに涙があふれてくるのだ。悲しみとか恨みとか怒りとか、そういう情緒とは全く関係なく、ただ、鎮魂のために。今ある得難い平和への感謝のために。

 

 

 

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「終戦記念日の夏空」への9件のフィードバック

  1. 馮錦華青年の印象を語ろうとしていたら来客があり、中断後続きをタイプしようとしたら、早やつぎのブログが。
    日本人同士で日本語を使って議論しても、溝の深さに暗然とすることが多いですね。却って馮錦華君のようなのと徹底的に語り合った方が相互理解に達するかも分かりません。
    本題に入って、私はあなたのお母さんと同世代で、やはり空の青さは記憶にくっきりと残っています。その日は朝からB29やP51の爆音は全く聞こえませんでした。正午に玉音放送があるからと手製の三球スーパーヘテロダインラヂオを調節して備えました。全国民玉砕を陛下自ら命令されると信じていました。
    もちろんあなたのお母さんより三つ上で、しかも男ですから、昭和天皇の仰有ってることは完全に理解できました。神国不敗を信じていた軍国少年は塩をかけられたナメクジのように土間にとけ込んで行きました。そういえば、父も母も姉も妹も土間に直立不動で立って聞いていました。
    親父は新聞記者で、シナ事変が始まって早々退職していました。何も語りませんでしたが、終戦になるということは数日前に地元の警察に呼ばれて聞いていたようでした。
    「君側の奸を征伐しなければ」と息巻く私に「すべて終わった。新しい世界が開ける」とだけいいました。
    それを聞いた途端、物の怪が落ちたように頭の中が真っ白になりました。何時間か経って周りが暗くなってきました。そうだ今晩から電灯をつけて勉強できるんだ、それが61年まえの8月15日の夜感じたことでした。

  2. 和歌山県有田郡湯浅町で生まれ、育ちました。いいところです。キリンビールの「日本の味100選」には「湯浅のしらす」が選ばれました。関西の釣り人にとってはメッカです。

  3. 香織さま
    >悲しみとか恨みとか怒りとか、そういう情緒とは全く関係なく、ただ、鎮魂のために。今ある得難い平和への感謝のために。
    最高齢で戦没者追悼式に出席された田端よしゑさん。
    『平和な世の中になり、みんなが仲良く健康であることがありがたい 』と、おっしゃっていました。
    私は、そこに、久々に大和撫子を見た。つつましく、気高く、美しき哉。
    香織さまのコラムにも大和撫子を見ました。
    駄文TRします。

  4. weirdo31さま:お父様は新聞記者でらっしゃいましたか。あの時代を、記者としていろいろな思いを胸にみてらしたのでしょう。夜になって、もう灯火管制しなくていいと思ったという感慨は母もよく口にします。

  5. aqua2020さま:
    今は湯浅町なのですね。私も、一度遊びにいきました。のどかないいところです。

  6. 平成退屈男さま:
    田端よしゑさんの言葉は胸にしみます。悲しみは癒えるはずがないのでしょうが、公の場でこういう言葉を口にする気高さを日本の母は備えているものなのだと感心いたしました。

  7. 福島香織様:Wikipediaによると、1896(M29)年6月22日-湯浅村が町制施行により有田郡湯浅町となり、1956(S31)年3月31日-湯浅町と田栖川村が合併、現在の湯浅町となる・・・と書いてあるので、終戦の時は「湯浅町」でした。湯浅は「醤油発祥の地」で、金山寺味噌(醤油は味噌の上澄)、なれ鮨(発酵させたもの、滋賀県の鮒寿司の原型らしい)も美味しいです。私が聞いた戦争中のエピソードを書こうとしたら蹴られて(拒否)しまいました。

  8. aqua2020さま:
    ご指摘ありがとうございます。とすると、母も勘違いしているみたいです。金山寺味噌、おいしいですね。

  9. 福島香織さま
     私は、終戦日一年生。我が家の庭には玄界灘を守る兵隊さんたちが宿営を張っていました。姉や母たちはせっせと、野菜、サツマイモ、小麦粉、などなど村中が協力し合って料理の手伝いをしていました。私たち子供は「かんぱん」非常用食をもらいました。珍しくてうれしかった。私は、一年生ながら戦争は恐ろしいものだと感じていましたので戦争が終わったと聞いて、ほっとした記憶が蘇ります。
    昨年(’05)8月15日と今年(’06)8月15日に歴史的な一日になるであろうと靖国神社参拝しました。そのときの空は今も深く心に刻まれています。テノール歌手の靖国神社の歌を奉納中ににわかに雷鳴が鳴り響きました。その写真は夕刊に掲載されました。ああ、奉納の歌が英霊に届・・・・。と直感しました。日本人の大自然観かとわれながらサムシング・グレートの存在をみました。一国一文明の基をみました、愚かな一主権者日本人がついています、ますます、感性豊かな広い心でじゃんじゃん頑張ってください。uchujin

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