■劉少奇・元国家主席の夫人、王光美さんが13日、なくなった。私はこの方、非常に好きなのである。好きになった理由は、ノンフィクション作家、譚ろ美さんの近著『江青に妬まれた女 ファーストレディ王光美の人生』(NHK出版)を読んだことと、譚さん自身から、たびたび王光美さんの人となりや印象を聞いていたことが大きい。で、15日には、花をもって弔問記帳にいって参りました。世の中の関心は、北朝鮮だろうが、その方面は他の記者がよってたかってやってくださるので、私は今回は王光美さんへの哀悼エントリー。
■愛を知る女こそ強い
激動を生き抜いた王光美さん
■王光美さんといえば、真っ先に思い出すのが、チャイナドレスを着せられピンポン球をつなげたネックレスをぶら下げられ紅衛兵とりかこまれ吊し上げにあっている報道写真。1967年4月10日の清華大学キャンパスの大批判大会である。ファーストレディとして夫・劉少奇とともにインドネシアなど歴訪時、彼女はがまとった白い絹のチャイナドレスやネックレスが「ブルジョア分子の動かぬ証拠」とされ、辱めに着せられたのだ。静止写真からはあまりわからないが、記録ビデオをみた譚さんによると、王さんは、紅衛兵のいたぶりに、「私は反動的ブルジョア分子ではありません。毛沢東の共産党です」と反論。「恐いだろう」と脅す紅衛兵に、「恐いことなんかないわ」と言い切ったという。
■ちなみにネックレスをめぐる王光美と江青との逸話が大島・正論編集長のブログに紹介されている。ただ、王さんが譚さんに語ったところによると、江青が王光美に言ったのは『ブローチなんかつけたらやぼったい』というセリフで、首飾りではなくブローチだった。それが文革のときに走資派として糾弾される材料として、江青の忠告をきかずに、ネックレスをつけた、という物語がでっち上げられたそうだ。いずれにしろ、江青は王光美が憎くって、うらやましくって仕方なかったことは間違いない。
■なぜか、それは王光美が「愛を知る人」で、江青が「愛を知らない人」だったからだと思う。
■王さんは革命第一世代の中で最年少の部類に入る。1921年9月26日生まれの生粋の北京っ子。ちょうど父親の王治昌(当時北京の高級官僚)がワシントンに仕事で滞在中で、アメリカの中国表記、美国の美の字をとって名付けられたという。母は天津の裕福な商家の出身。兄弟姉妹が王さんを含め11人(のちに長男は夭折)。じつはこの兄弟のうち上から3人は、王さんの異母兄にあたる。王さんの母親は、病死の先妻の子供を引き取って、自分の子供と分け隔てなく育て、王さん自身も異母兄弟であったことをあとになって知ったくらい仲が良かった。大家族で裕福でみんな仲良し。そんな恵まれた環境ですくすく育った娘、それが王さんだったのだ。
■そんなお嬢様の彼女がなぜ、革命に身を投じたのか。1946年の当時、彼女はミッションスクールの輔仁大学物理学部(後に北京師範大学に吸収)に入学し、成績優秀で英語はぺらぺら。大学院をへて奨学金をへて米国に留学することになっていた。しかし、その英語のうまさを見込まれて、知り合いの共産党員から会議通訳を頼まれたことが、彼女の運命を大きく変える。
■彼女は、米国留学をけって、延安にいくことを決意したのだ。その理由は不明なのだが、彼女を直接インタビューした譚さんは「お嬢様にとって、泥臭い共産党エリートが異質ながらも魅力的にうつり好奇心が刺激されたのでは」とみている。このとき、米国留学していれば、王さんの人生はまったく変わった。あるいは中国の歴史もちょっとは変わったかもしれない。文化大革命があそこまでエスカレートしたのは江青の暴走が指摘されるが、江青の暴走は、王光美の存在が刺激した、とも言われるから。
■美しく、有能なわかき共産党員、王光美は育ちの良さからくる性格の良さもあって誰からも愛され、やがて最高幹部のひとり劉少奇(当時は共産党中央の臨時主席)に見初められる。1948年8月21日、二人は党の仲介で結婚した。ロマンス、というより、歳で結婚に四度も失敗し、子供抱えてこまっている五十路男の劉少奇にちょっと同情したところもあったようだ。ちなみに結婚当時、劉少奇はすでに五人の子持ち。26歳の新妻はいきなり子だくさんの母親になったのだが、そのことをまったく屈託なく受け入れてしまう。その懐の深さは、彼女の母親の子育て姿勢の影響を受けたためだそうだ。
■美人で育ちがよく、頭脳も優秀(スポーツも万能、大学時代は卓球の選手だった)、なおかつ良妻賢母の慈愛にみちた完璧な女性、王光美。その完璧さがどうしても許せない女がいた。もうひとりのファーストレディ、毛沢東の妻、江青である。江青は1914年(?)、山東省の諸白県で妾の子として生まれ、12歳に父親と死別。母とともに天津で行ったものの貧困をきらい、女優になる夢を抱いて上海にいく。日中戦争で戦火が上海までに及んだため、共産党の首都、延安をめざし、そこで毛沢東と出会うのだった。
■江青は男好きのする美人。しかし彼女は愛を知らず、美しさを出世に利用するタイプだろう。夫がいながらも、いい役をとるために共産党幹部と寝る。捨てられた夫は、自殺すると騒いでスキャンダルにもなった。毛沢東との関係に本当に愛があったのか?文革時代の江青の暴走は、毛沢東の江青への愛情が失われ、新たな女性を作ったことへの恨みが爆発した、といわれているから、一時的には多少の愛はあったのかもしれない。が、思うに二人とも本当の愛を知らない。その点で、いいコンビだったのではないか。二人とも愛したのは権力だったのだ。
■譚さんの著作の中に、江青の足についての推察がある。江青はプールサイドでもいつも靴下をはいていた。泳ぐときも靴下をはいていた。彼女の足は「解放脚」との噂があった。「解放脚」とは纏足を途中でやめた足で、親指以外の足の指が全部内側に折り曲がっているという。纏足とは清朝に流行した悪習で、足を布で強くしばり、小さいまま成長させないようにする。こうすると、歩くとき内股の筋肉をよく使うので、閨房で男性をより喜ばせることができる、という。
■かたや前時代の悪習のなごりを身に残しながら性的魅力をフルに使い権力の階段をはいのぼってきたファーストレディ。かたや欧米の先進教育を受け柔軟な頭脳と快活な人柄と優しさを見込まれて、迎えられたファーストレディ。この二人が相容れなかったのは当然とえいば当然。毛沢東が真に人望のある有能な政治家・劉少奇を許せなかったように、江青も真にエレガントなファーストレディの王さんの存在を看過できなかった。
■王さんは清華大学の大批判大会のあと、67年9月逮捕され12月までの間に34回、殴る蹴るの暴行をともなう激しい訊問(拷問)を受け、拷問の結果の供述による調書をもとに「死刑」の決定が下された。下したのは江青の主導で作られた「王光美専門案件小組」である。江青は王光美を死刑に追い込むためにわざわざ専門の審査機関まで作ったのだ。この報告が毛沢東にあげられたとき、毛沢東は「暫時死刑はせず」とこの決定を覆し、紙一重のところで命を助けられた。だからなのか、王さんは決して毛沢東の批判を口にすることはなかった、と譚さんは言っている。
■王さんは北京の秦城刑務所で12年間を過ごした。その間に、夫・劉少奇は非業の死をとげる(1969年)。それを知らされたのは72年だったという。窓ひとつの独房で日付のわからぬ毎日が繰り返され、食事といえばウジのわいた漬け物や薄い野菜のかけらが浮いたスープ、マントウ。こういう仕打ちの中、精神を病んだ人も多かったのに、彼女は耐えきった。その強さを支えたのは、やはり家族を思う心、愛ではなかったかと思う。王さんの子供たちは八方手を尽くし両親の消息を捜し、毛沢東に手紙を書き宋慶齢経由で渡してもらったりして救出の努力をしていた。親子の愛はどこかで通じていたに違いない。
■文革終結後の1979年に劉少奇の名誉も回復され、王さんもは釈放された。80年には劉少奇の海に散骨し、夫の遺言をかなえた。王さんが江青に再び対面したのは1981年、「林彪、江青反革命集団10名」を裁く特別裁判の傍聴席からだった。王さんが江青の後ろ姿を凝視していると、ふと江青が振り向き、一瞬視線があったという。江青はそのまま、表情を変えずに正面を向き直ったという。
■王さんの老後は充実していた。大きな功績として知られるのは農村の貧しい母親を支援する「幸福工程」への参加である。彼女は家伝の骨董品をオークションにかけその収益を率先して寄付したことで大きな慈善事業運動に発展した。この活動(1995-2005年)の様子をまとめた冊子は、弔問客に配られていた。ちなみに、弔問は入院先の解放軍第305病院の一角で行われていたが、花輪の山で弔問客はひっきりなしだった。王さんがいかに敬愛されていたかうかがえた。
■死刑判決を受けた江青はその後無期懲役に減刑され、王さんが入っていた秦城監獄で十数年服役。70歳をすぎて病気がちになったことから監獄外で療養生活を送るようになったあとの、1991年5月?日、北京の自宅でナイロンストッキングをベッドに結びつけ首をつって自殺。今、彼女のことをよく言うひとはいない。誰も愛さなかった人は誰からも愛されなかったのか。そして愛を知らぬ人は、最後には自分すらも愛せず、自らを殺すしかなかったのか。
■今年、文革終結後30周年。いまだに正面からの検証を許されないあの凄惨な時代を耐え抜き、「過去のことは何も後悔していません」と言い切った王さん。その生涯を、より多くの人に知って欲しいと思い、少々ながめのエントリーになった。彼女のことを考えると、本当の人間の強さも幸福も、権力を掌握することではなく、愛を知っているか否かで決まるのだと思う。
(譚ろ美さん提供)
この本もおすすめ。
福島さん。感動しました。
私も扶桑社の「毛沢東秘録」で、王光美さんが糾弾されている写真を見た時の衝撃は、今でも忘れることが出来ません。私の毛沢東や中国共産党に対する怒りも、この時に始まったような気がします。
人は暴力に対して、かくも残酷で弱いものかと、そして信念を貫いて生きる勇気が自分にはあるのかと、ただただ考えさせられました。
こんにちは
香織さんは本当に中国が好きなんですね。
いや好きと言うより大きな愛で包んでますね。
結構、夢見る夢子さんでロマンチスト。
故に悪い中国は人一倍許せない。
人の人生、いろいろですが、数奇な運命に
ここまで翻弄されて生きる、すごいとしか
言いようが無いですね。
中国と言う大きな国の中で政略、謀略、
権力争いの中で生きる。強くなるのも
頷けます。
平和が一番、日本に生まれて感謝します。
有難うございました。愛を知る人。愛し、愛された人。目が潤んできました。
福島香織様:おはようございます。福島様の「中国好き」が伝染したようで、かの国に対する感情が好転しつつあります。その結果、昨日ですが、中国商工銀行のIPOを(少し)申し込んでしまいました。
もし機会が有れば、娘さんの取材にもトライしてもらいたいです。 四人組に洗脳され、彼女が父君に“止めを刺してしまった”のは、よく知られていますね。(結果、自分もブタ箱送りになった)
今何をされてるかは不明ですが、15年くらい前まで彼女やその周辺と交友関係にあり(阿姨と呼ぶくらい親しかったです。 その頃は一市民として、人知れず、ひっそりと悔恨の日々を送っておられた)、その波乱に満ちた半生の一部を知りました。 いつか誰かが本にしてくれないものか、と思っているんです。
文字として残ってはいるが近代史として感じ取れない“文化大革命”をもう一度若い世代の為に、偏向なき視点から再検証するシリーズがないものでしょうかね。
嫌がるマスコミ関係者はゴマンといるでしょうが、真実をつきつけることが目を開く基になるのではないでしょうか。期待しています。
「歴史の陰に女あり」っていいますが、中国はあてはまりませんね。「表」ですものね。
sakuratou さま:読んでくださってありがとうございます。王光美さんはすごい方です。同じ境遇に自分が耐えられるかと思ってしまいます。
benkei さま:私も日本に生まれて感謝です。でも、中国は好きです。こんな激しく興味のつきない取材対象は、めったにありません。
torisan さま:ありがとうございます。私も譚さんの本や、王光美さんの伝記を読むと、目頭があつくなることがあります。
aqua2020 さま:工商銀行ですか。27日上場ですね。上海高速道路の融資とか、いろいろ問題かかえているようですが、政府の肝いりのメガバンクですから買って損はなさそうですよね。
riceshower さま:先妻さんの娘で、劉濤さんでしたか。でも、今どこにいらっしゃるのか。弔問のときにはいらっしゃらなかったと思います。正攻法では、難しそうな取材ですが、いろいろ画策してみます。もし、意外なコネとかご存じでしたら、こっそり、外信部経由で教えてください。
nhac-toyota さま:文革は、いまでも中国でほとんどタブーでありながら、大きな影響を残しています。いろんな切り口で書けそうですよね。
kikuti-zinn さま:とくに、文革での江青の表舞台の女優ぶりはすごかったです。
ええ、劉濤さん。 今どこで何をしているか、消息を探ってみますね。
その愚行*ゆえ、文革後復権した所謂太子党の間でも、最大限の怨嗟の的になっていましたから、とても葬儀に出られるような立場ではなかったのでしょう。
*皇女のように育てられ、頭も理系で、四人組にとって彼女を洗脳するのはいとも容易いことだったはず。 付き合いが有ったころはもう40代前半でしたが、未だにイノセントというかナイーブというか、世知に疎い、“人過好”って感じでした。 自宅(北京市内の一般労働者用の2DKのアパート)には父君の大きな写真が掛けられ、その前で毎日お香をあげ、一人祈りを捧げていた様が、とても印象的というか、痛々しく、悲しくて…。
江青と王光美。男性優位の東洋では権謀術数に長けた江青は結局エリザベス女王にはなれず、幽閉を解かれたメアリが復権した。ということか? メアリは育ちがよく、エリザベスは妾の子だったそうだが。