■四川大地震現場からきのう戻ってきました。朝の飛行機が、北京の雷雨のせいでとばず、午後の飛行機になったり、今朝になっていきなり6月末に、マンションから出て行け(五輪期間中は別の客に貸す契約をすでにしたので)といわれて、押し問答したりして、地震現場とは種類の違う忙しさにおわれています。
■しかし、今回の大地震は中国にとって世紀の大災害、価値観のひっくりかえる大事件だと思うので、やはりしばらくは地震関連のエントリーを続けていきたいと思います。(もちろん、チベット問題も忘れたわけではありません)
■学者の良心、
濱田政則・早稲田大学教授の話
地震学は被災地に役立つか?
■被災地現地取材中、日本の地震工学学会次期会長で元土木学会会長の濱田政則・早稲田大学教授にお話をうかがう機会があった。5月28日から6月1日にかけて濱田教授を団長に日本の土木、地震工学、地震学、建築学、地盤など5学会の専門家チームが被災地を訪れ、復旧、復興にむけた技術支援を行いたいと、四川省の専門家らとともに現地を視察、意見・情報交換をして、31日にシンポジウムを開いたのだが、それを取材にいったのだった。
↑そのシンポジウムの様子。中国側からは、余震の分布や被災状況が紹介され、日本からは被災建物診断だとか、高速道路と地滑りの復旧作業の技術的な情報が紹介された。
■日本は阪神大震災を経験して以降、復旧・復興、そして防災技術、知見については蓄積がある。それをぜひ現地に提供したい、として、濱田教授らはいちはやく、四川大地震復旧技術支援連絡会議というのを設立した。日本の地震・土木学者が震災直後にこういったアクションを起こすのは初めてだそうだ。
■とりあえず、濱田教授が直接交流のある西南交通大学がカウンターパートになって今回のシンポジウムは行われたが、将来的には、日中の研究者の英知を結集して、四川大地震の復旧に貢献できるような形に発展できないか、中国政府や四川省政府がつくる復興委員会にアドバイザーとして関われないか、と模索中という。
■このとき、濱田教授のことばに考えさせられた。文言どおりではないが、だいたい以下の意味のことをおっしゃった。
「私は、イランの大地震のときも、インドネシアの津波災害のときも、災害発生のほとんどすぐ後に現場にいきました。そして現場を見るたびに心を痛める。人類は何度も大災害を経験してきているのに、どうして被害が防げないのか。いったい研究者は何を研究してきているのか。研究してきたことが、被災者を救うことにつながっていないなら、研究は何のためにあるのか」
■「研究者は災害発生後、調査と称して現場にいって、壊れた家屋の写真をぱちぱちとって、帰って論文を書く。しかし、それを被災者の人たちはどういう思いでみるか。そんな調査や研究で被災地を救えない。だから、今回私は、研究者らに、くだらない調査より先に、技術者として被災地を救うことをやろう、とよびかけた」。で、四川大地震復旧技術支援連絡会議の設立、というわけだ。(ちなみに、すべての研究がくだらない、という意味ではなく、「くだらない調査」がある、というニュアンスであることを、補足していました)
■濱田教授のおっしゃったことは、研究者、技術者の良心に問いかける言葉だったと思う。今回の四川大地震は世紀の大災害の現場、地震学者らにとっては、最高の研究材料であり、学者なら誰もが調査に飛んでいきたい、というのが本音だろう。しかし、研究とは何のための研究か。論文を書いて学者としての名を高めるのが研究の目的なのか、そのあたりを考えねばならない、ということだ。
■そして、同じことが、記者にも言える。何十年かに一度の現場、被災地に一番のりしたい。雑誌の見開き頁をかざる、あるいは新聞の一面をかざる衝撃的な世紀の写真を撮ったり、ルポを書きたい。というのは記者として、当たり前の欲望だろう。だが、何のための報道か、ということを改めて問えば、災害報道ほど目的がはっきりしているものはない。人の命を救うこと、被災者の助けになること、だ。この目的にかなわない災害報道はあってはならない。たとえば、救助の妨げになる報道など。
■阪神大震災のとき。取材ヘリの音が、瓦礫の下の助けを呼ぶ声をかき消す問題があった。取材にいって「何をしにきた」「取材よりボランティアしろ」と怒鳴られた経験は私だけではないだろう。地震の恐怖を子供に繰り返し言わせて泣かせるインタビュアーだとかの問題もあった。阪神大震災の数年後、ふと気づくと何人かの知っている記者が記者家業をやめていた。その理由に、命を救う手助けもせずに、救われない命の取材をしなければならなかったことへの自責を言う人もいた。
■阪神大震災のとき私は大阪本社文化部所属で、地震発生当初の興奮状態の取材より、その後のマンション復興のプロセスや、孤独死の問題、心のケアの問題など長期的な定点観測取材の時期が長かった。だから当初、「何しにきた」と胸ぐらをつかんで怒っていた被災者も、あとになると、記者の取材の訪問をむしろ心待ちにするようになって、結構なかよくなった。みんな、時間がたつと、メディアが関心を失い、あまり報道されなくなって、世間から置き去りにされることを恐れるようになって、「あんたは、いつまでも来てくれる」などといってもらった。だから、私はやめた記者のように震災取材が心の傷にならなかったのだと思う。
■きょう、阪神大震災遺児らのケアハウス「神戸レインボーハウス」の岡崎祐吉さんから連絡をいただいて、私が記事で紹介した成都医学院の陳孜さんと震災遺児(といってももう大学生くらいにはなっているが)と、陳さんのところでケアを受けている子供たちが交流できないか模索している、ということであった。陳さんとすでに連絡を取り合っているそうで、7月にはそういう交流が可能になるかもしれない、という。「成都にレインボーハウスをつくりたい」ともいう。
■この話をきいて、7月か、取材したいけれど、ほとんどの日本メディアは現場から撤収しているだろうなあ、すでにメディアの関心は五輪にうつってしまって被災地のニュースはバリューが低下しているだろうなあ、と思う自分がいた。日本で発生した震災と違い、所詮外国でおきたよその国のできごとであり、日本の読者も忘れるのは早いだろう。でも、本当はそこにはまだ、傷の癒えぬ人があり、瓦礫の街がのこっている。
■濱田教授らが、学者や技術者の良心に従い、目的が調査や研究ではなく、被災地を救うことだ、と思ってアクションを起こした。なら、私も記者としての良心に従うべきだろう。外国の災害の長期的な復興の話など、ニュース価値としては低いし、派手な記事にはならないかもしれないが、記事を書くことが目的なのではなくて、記事によって少しでも被災地の助けになることが目的なのだ、という災害報道の基本に立ち返って、今後も被災地の状況をフォローしていきたい、とがらにもなく殊勝なことを思ったのだった。
↑濱田教授
回来了?辛苦了。。。。
福島記者お疲れ様でした。
いい仕事してますね。
今後も楽しみにしています。
福島記者
> …みんな、時間がたつと、メディアが関心を失い、あまり報道されなくなって、世間から置き去りにされることを恐れるようになって、「あんたは、いつまでも来てくれる」などといってもらった。だから、私は…
今回の四川からの記事の原点にはそんな「阪神淡路」の経験があったのですね。
私自身を顧みても、既に能登や新潟については記憶の片隅…浜田教授の問いかけは重いと考えます。
> …がらにもなく殊勝なことを思ったのだった。
そんなに謙遜しなくっても…♪ 福島記者の良心にはたびだび紙面や本ブログで触れさせて頂いてますよ。
産經新聞は定期的に地震関連特集やってるのだから、記事目的をダシにしてでも陳孜さんとこの子供達と「神戸レインボーハウス」の方々との交流を支援していいのでは?
人間の内心に対する介助なんて簡単なものではないのでしょうが、体験を共有する者同士が何かを生み出してくれると信じますし、彼等なりに伝えたい意見を「部外者-将来の被災者?-」に知らせる機会にもなるでしょうし…少なくともありがちな「お涙頂戴記事」なんかよりずっと有用なんじゃないかな?と考えます。
TO 福島香織 様
>記事によって少しでも被災地の助けになることが目的なのだ、という災害報道の基本に立ち返って、今後も被災地の状況をフォローしていきたい
この言葉を腹の底に据えてください。
実は、私は西南交大でのワークショップに閉会までいました。
このことをブログに記事しています。
今後の報道を成都から見守っていきますから、
健康に留意されて、がんばってください。
福島さん
阪神大震災の数年後、ふと気づくと何人かの知っている記者が記者家業をやめていた。その理由に、命を救う手助けもせずに、救われない命の取材をしなければならなかったことへの自責を言う人もいた。
戦場カメラマンも似たような心境になるようですね。R・キャパの「ちょっとピンぼけ」にこれに似た箇所があった。
((兵士が銃弾を受けてくずおれる写真)あのような劇的な写真が撮れるなんて、キミはあの兵士が殺されるのを息を潜めて待っていたのか?云々)
「おしゃべりカケス」はその口の軽さ故に嫌われるかもしれませんが、彼が居ないと森の仲間にニュースも伝わらないし、そうなったらかえって皆困ると思います。テニスのダブルスでは、ふたりとも攻撃型のペアより、一人がつなぎ役、一人が攻撃型、のペアのほうが強くなりますし、水戸黄門なんかの時代劇では、悪役が居ないと、そもそも劇自体が成り立たないのではないでしょうか。
しかし記者家業に消耗して辞めるのであれば、それはそれで結構だとおもいます。イヤイヤやり続けるというのがよくない。
福島さん:
こんばんは。
今回の記事を読んで、先日、福島さんが仰られていた「孤独死」を思い出しました。
この言葉を聞いた当時は、順調に復興が始まれば、現地での仕事も多くなり、被災者の方たちも元は勤勉な労働者たちが多いので、とにかく働き始める事によって被災地にも活気がつくのではないかと、かなり楽観的に考えていました。
しかし、一人取り残された年配の方や、障害が残り労働力を失った方など、通常の生活を取り戻すのが困難な人たちの未来を考えると、「孤独死」という言葉は、とても重く心に響いてきます。
大雑把なきれいごとを並べるだけでなく、できる事が小さな事でも、被災者と同じ目線に立って、その人たちが一番必要としている支援をするべきなんだと、記事を読んでいて思いました。
震災を間近で経験した者として、無学でちっぽけな自分にできる事を、これからできるかぎりやっていこうと思います。
では、本題からそれたコメントを長々と失礼しました。
ところで、福島さんは戻られて早々、なんというか、いかにも五輪を控えた北京らしいトラブルにあわれたようですが、マンションのことは無事に解決されたのでしょうか。
ひとまずはお帰りなさいませ。さらにお忙しいと存じますが、益々のご活躍をお祈りします。
エントリー、心に染みました。ブログエントリーも言わばひとつの報道なのですね…学問も報道も人のためになってこそなのですね。大切なものを学んだ気がします。
これからも応援させていただきたく思います。(^^)
危険を冒しての取材、お疲れ様です。
「記者の良心」についてのお考えについては全面的に同感です。
ただ濱田教授の考え方は視野が狭すぎるように思え、賛同しかねます。
一般にどのような学問領域であれ、長期的な研究目標を持っています。地道にデーターを蓄積していくという活動が欠かせません。
目の前の被災者を助けるために研究者が知恵を出すことと、現地で「写真をぱちぱちとって、帰って論文を書く」ことは、どちらも必要であり、両立するのではないでしょうか。
学者、研究者の場合は論文の内容、数が必要でそれをしないとその分野での評価や大学、研究所であの人はなにも発表がない、業績がないといわれる。
したがってある程度はしょうがないと思う。会社での研究所では特許がいくつとったかが必要です。このことは気をつけていると時々何もしない教授とかいうのがどこかで書かれている。
新聞社の人と研究者では違います。
学者、研究者の場合は論文の内容、数が必要でそれをしないとその分野での評価や大学、研究所であの人はなにも発表がない、業績がないといわれる。
したがってある程度はしょうがないと思う。会社での研究所では特許がいくつとったかが必要です。このことは気をつけていると時々何もしない教授とかいうのがどこかで書かれている。
新聞社の人と研究者では違います。
それでこの場合、調査報告書なども業績にするようにしたらいくらかましに成ると思います。
こんにちわ。
マンションの問題は、無事解決しましたか。
オリンピックの間だけ、ほかの人に貸すとは、ビックリです。
>今後も被災地の状況をフォローしていきたい
記事、期待してます。頑張ってください。
地味かもしれないですが、素敵なことだと思います。
福島記者お疲れ様でした。
マンションの事も大変ですが 記事を書くのも大変ですね。
地震で孤児になったり老人の孤独が皆の力で解決出来ればと
思い福島記者様の記事読ませて貰ってます。
無理せずに頑張って下さい。(矛盾な言い方で申し訳御座いません。)
To tenyoufoodさん
>英語で、
>※ 語尾が「-or」の人には、高い倫理観がある。
>例; doctor, inspector
>
>※ 語尾が「-er」の人は、高い倫理観がない。
>例: engineer, lawyer
advisorは高い倫理観があり,
adviserは高い倫理観がないということですか
?????
To tenyoufoodさん
>※ 語尾が「-er」の人は、高い倫理観がない。
>例: engineer, lawyer
古フランス語engineor → engineer(ジーニアス英和)
福島さん、まさに「良心」による記事すばらしいと感じました。
小事にこだわって全体を見誤っている報道の洪水の中で久しぶりの清涼剤(失礼)でした。
防災関係5学会の協力は、中越沖地震の調査(08年8月)が最初で、当時の担当理事や濱田先生が中心となって進められ、今回も連絡会議の必要性を強く主張されたそうです。
「良心」の学者、専門家は健在です。
terry94306さんと、同様です。
お疲れ様です。いいお仕事をなさっていますね。
震災報道というお話を越えて、
人は仕事で何をなすべきかというお話、泣けました。
阪神大震災のあとで、仕事をやめてしまったジャーナリストのお話、
ご本人にはお気の毒ですが、聞いて、救われる気もしました。
仕事以前に、人間としての根源的な良心の問題ですね。
世の中の関心が他に移ってしまっても、
ご自分の関心のあることは報道し続けられる、
これがこのブログの意義のひとつなのかもしれませんね。
(とはいえ、産経新聞を購読していない私、
これだけ充実した情報をいただけるブログ、
無料で読ませていただいていて申し訳ないです。
前にも書きましたが有料化なさったらいいと思います。
有料化されても読みます。)