■今日は終戦記念日でした。靖国神社に参拝にいかれた方も多いかと思います。私は午前中は夕刊の当番でしたので、本社編集局に午後2時までおりました。全国戦没者追悼式はテレビ中継でみました。で、仕事がおわって、午後に靖国神社に参拝してまいりました。
■考えてみれば8月15日に東京にいるのは10年ぶりくらいです。ふしぎと、この日については世界中どこにいようと、真っ青な空とじりじり照りつける太陽の記憶しかありません。午後からでも九段下駅はすごい人で、大勢の警備の方が人の流れを整理していました。
■靖国通りには、なぜか東トルキスタンの‘キョック・バイラック’を掲げてウイグル問題を訴える人、NHKの台湾問題偏向報道問題への賛同を求める人、チベット問題解決を呼びかける人らでごったがえしていて、終戦の日の英霊・戦没者への哀悼と鎮魂と、直接関係がないような、でも平和への祈りという意味ではどっか共通項があるような、不思議な風景でした。いつもこんなんでしたっけ?
■大村益次郎像をこえて、クマゼミ、みんみんゼミの合唱のシャワーを浴びながら参道をいくと、神門のあたりから、参拝者がぎっしりならんで、歩みが遅くなります。日傘をさしているかたもいましたが、ほとんどが焼けつく太陽に額をさらして、汗びっしょりになって無言で拝殿の前に辿りつくのをまっていました。拝殿の前までくると二礼二拍一礼。それから遊就館へ。
■遊就館は、人によっては「けしからん存在」らしいですが、御遺族から奉納された御遺影がびっしり壁を埋め尽くす展示室16~17は、まさに鎮魂の空間です。一歩入れば、鼻をすする音がそこかしこに響いていました。遺書や遺品をひとつひとつ丁寧にみていくうちに、自然と涙があふれます。縁もゆかりもない若者も、観光旅行で来た人も、やはりここでは泣いてしまう。そういうふうに、一年に一度くらい、日本で一か所くらい、今の日本がここにあるために、命をささげ、これからも日本を守護してくださる英霊の生前に思いをはせるにふさわしい時と場所がなければならないと改めて思います。
■しかし、この部屋の厳粛さと、玄関ホールの軍事オタクのテーマパークかと思うような展示や縁日のような賑やかな売店コーナーが対照的。でも、神社って昔からこういう聖と俗が一体となった空間なのだから、らしいといえばらしい。
■かなり前のことですが、とある著名中国人文筆家が日本を訪れたとき、ぜひ行きたい場所として靖国神社をあげ、私の友人が案内したことがあります。その中国人は、おそらく物書きとしての好奇心で訪れたがったのだと思いますが、実際に神社に参拝し、展示をみてものすごく感動していたそうです。それは、鎮魂や慰霊、哀悼というものに対する日本人の姿勢、メンタリティー、その真摯さなんですね。
■それは中国の抗日紀念館や南京大虐殺紀念館にはありません。遺影どころか、戦没者名簿もないのですから。あるのは生々しい遺体が写った日本兵の残虐ぶりを示す写真や模型ばかりです。
■だから中国の抗日戦争に関する紀念館は、現在の中国を築くために命をささげた英霊の鎮魂や哀悼や祈りが目的ではなくて、戦争を知らない中国人に、日本に対する敵愾心を恒久的にすりこむための政治的な教育施設にしか思えない。私は中国の紀念館で日本軍の残虐ぶりをこれでもかと展示すること自体に反対なのではありません。ただ哀悼の気がみちていない。この一点から、私は中国の歴代の指導者たちが、今の中国をつくるために犠牲になった大勢の人民の命にたいして、本当はなんの痛痒も感じてこなかったのではないかと、感じてしまうのです。
■もちろん、靖国神社に展示されている戦争史観は、「侵略戦争を肯定的に書いている」と批判されるむきもあるでしょうが、私はそうでもないと思いますよ。第一、ここは鎮魂と哀悼の空間です。あの戦争を悪だ悪だ、といえば、命をささげた方がやすらぐどころか苦しんでしまいます。鎮魂にならないではないですか。だから、アジアの国々で犠牲になった方の鎮魂の空間では、おそらく日本が悪であったという戦争史観を展示するのが当然だと思われるように、靖国神社で日本人が日本の英霊を祀るにふさわしい、鎮魂を祈るにふさわしい歴史観をもつのになんら批判されるべきところはないと思っています。戦争史観なんて、当事国の数だけあってしかるべきなんですから。それが外交や政治の場、あるいは相手国の人を前にしたときに、いろいろ配慮したり表現が変わるのも当然だろうし。
■ちなみに、その中国人文筆家は、中国に帰って靖国神社の本当の姿を伝えたいともいったそうですが、それは友人が大反対しました。中国でそんなことを口走れば、大バッシングで火だるまになること間違いない。命だってあぶないかもしれない。でも、中国の人でも、狛犬にスプレーをかけるような人間ばかりじゃないということを、ここでちょっと言及しておきたいと思います。
■さて、鳩山民主党代表は政権交代後のあかつきに、靖国神社にかわる国立の戦没者追悼施設をつくりたいそうですね。素朴な疑問。そういう追悼施設をつくっても英霊は靖国神社に還っているわけですから、しかもすでに神さま、日本の守護神となってそこにおわすわけですから、そこから新しい施設に御渡りになるということは、考えにくい。仏壇も御魂入れしないとただの箱ですからね。そんなただの箱の追悼施設に総理や閣僚たちが参拝する、ということですね。よく、小泉元首相の靖国神社参拝を政治的パフォーマンスという方もおられますが、何も入っていない箱を参拝するのは政治的パフォーマンスにもならない無意味な行動ではないですか。いや、むしろ英霊に対する侮辱行為といっていいかもしれません。それなら、靖国神社に参られないい方は千鳥ケ淵戦没者墓苑に献花するという、今までのやり方の方がずっといい。
■首相や閣僚が靖国神社を参拝するかどうかに、政治的外交的配慮がからむのは、それはそれで一つの判断でしょう。ただ、一年に一度くらい、政治的思惑も外交的配慮もわすれて、日本人としての心に従って英霊の鎮魂と哀悼と、その犠牲の上に築かれた日本の平和への思いをかみしめる日があってもいい、いやあるべきだと、思いました。
■私にとって、きょうはそういう一日でありました。
(おお、気が付いたら日付がかわっていました。)
首相や閣僚が靖国神社を参拝するかどうかに、政治的外交的配慮がからむのは、それはそれで一つの判断でしょう。ただ、一年に一度くらい、政治的思惑も外交的配慮もわすれて、日本人としての心に従って英霊の鎮魂と哀悼と、その犠牲の上に築かれた日本の平和への思いをかみしめる日があってもいい、いやあるべきだと、思いました
↑
その通りです
政治ショーまがいの参拝は見苦しい
福島記者
> 戦争史観なんて、当事国の数だけあってしかるべき…
この文言に尽きますね。
命と書いて「みこと」と読み、英霊として祀る形式を他の文化圏(特に一神教系)に説明する事は困難すぎると考えていたのですが…
> 中国の人でも、狛犬にスプレーをかけるような人間ばかりじゃない…
意外と言えば意外、でも何だかそんな気がするエピソードですね。 故人を祀る事に関して日本以上に丁重だったという逸話も聞いた事あるし…
さて、鳩山民主党代表は政権交代後のあかつきに、靖国神社にかわる国立の戦没者追悼施設をつくりたいそうですね。素朴な疑問。そういう追悼施設をつくっても英霊は靖国神社に還っているわけですから、しかもすでに神さま、日本の守護神となってそこにおわすわけですから、そこから新しい施設に御渡りになるということは、考えにくい。仏壇も御魂入れしないとただの箱ですからね。そんなただの箱の追悼施設に総理や閣僚たちが参拝する、ということですね。よく、小泉元首相の靖国神社参拝を政治的パフォーマンスという方もおられますが、何も入っていない箱を参拝するのは政治的パフォーマンスにもならない無意味な行動ではないですか。いや、むしろ英霊に対する侮辱行為といっていいかもしれません。それなら、靖国神社に参られないい方は千鳥ケ淵戦没者墓苑に献花するという、今までのやり方の方がずっといい。
これって、福島さんが神道信者であるということですよね。
民主主義者が、思想信条、信教の自由に配慮し、神も仏もキリストもいない、ただの箱の追悼施設を作ろうとすることの、どこがおかしいのでしょうか。
私にはわかりません。
ただ、一年に一度くらい、政治的思惑も外交的配慮もわすれて、日本人としての心に従って英霊の鎮魂と哀悼と、その犠牲の上に築かれた日本の平和への思いをかみしめる日があってもいい、いやあるべきだと、思いました。
もしも、福島さんが、その実践が靖国参拝だと考えているとすれば独善を通り越して偏見ですね。
英霊への鎮魂と哀悼と、その犠牲の上に築かれた日本の平和への思いのかみしめ方は、人それぞれ違うようです。
それが民主主義国家ですね。
恐怖の福島ルール、二度目を使いきったから反撃が怖い。
ま、いいか。
鈴木、
>もしも、福島さんが、その実践が靖国参拝だと考えているとすれば独善を通り越して偏見ですね。
真の民主主義者は、他人の信仰のあり方を「独善・偏見」とは言わない。
言葉に出して批判する、おまえのコメント自体が、おまえの言う
「民主主義」から外れた行為だと知れ!
阿比留さんの所では、少しはまともなことを書いているのに、
相変わらず「まだら状態」は直っておらんな。
To 鈴木 茂さん
> 民主主義者が、思想信条、信教の自由に配慮し、神も仏もキリストもいない、ただの箱の追悼施設を作ろうとすることの、どこがおかしいのでしょうか。
> 私にはわかりません。
全部おかしい。税金を使わずに個人で勝手にやる分には作ること自体は良いでしょうが、死人との約束を生者が勝手に反故にするがごとき行いに賛成する者は居ない。
逝った者との約束は「靖国で会おう」だったのだから靖国でないとおかしい。
靖国で祀られる約束があって命を懸け、亡くなった方々に対する冒涜だ。
国家の責任ある立場の者が国として約束したのだから、靖国で祀り、維持し参拝すべき。
それを支那朝鮮如きに文句を言われることではない。死人に鞭打つメンタリティは日本古来のものとかけ離れている。それを基準にする必要は皆無。日本は日本らしく。それが民主主義だろうに。
>8月15日はどうしていつも、こんなに暑いのか
昔からお盆は暑いと思います。温暖化うんぬん以前に自然現象だと思います。
< ...しかし、この部屋の厳粛さと、玄関ホールの軍事オタクのテーマパークかと思うような展示や縁日のような賑やかな売店コーナーが対照的..。>
同じような感想を持つ人も少なくないのかもしれません。
しかし、思いも強く、真の歴史認識を持つ人ばかりではありません。若者を含めその様な人たちの心を引き付け、興味を持たせる為にはるためには入り口に展示されている様な展示が有効なのです。
そして、興味心を沸き立たせた後、奥に誘導し本来の展示を見てもらう。
いきなり、暗い内容の展示では客は呼べません。
こんな発想は役人では出来ません。恐らく、頭の柔らかい賛同者達の協力があったのでしょう。
何度行っても、必ずあの入り口の展示は見ています。
軍事オタク向けと思われがちですが、普通の人達にも必ず感動をくれます。
メード・イン・ジャパンの原点なのですから。
福島様
正直本日のエントリーには驚きました。
中国やチベット関連の記事では、サンケイにもフェアな視点のジャーナリストがいらっしゃるのかと興味深く読ませていただいていたので。。。
常日頃のチベット関連での、民主主義や信教の自由についてのコメントはどうなさったのでしょうか?
私は、日本人の大方がそうであると思われる、元旦に神社に初詣しお盆にはお寺に行く人間ですが、そしてそういった人が日本人の中ではマジョリティであるだろうとは思いますが、だからといって日本人=神道にはうなずけません。
信教や思想信条の自由は民主主義の根幹の一つだと思いますし、死生観は宗教の根幹です。
死者を悼みたくても、神社であるということで、すでに靖国は国民の一部をはじいてしまう存在だと思います。
そのためにも、無宗教の『ただの箱』が、日本の国家に必要だと思います。
誰を阻害することなく、死者を悼むことができる『場』が。
民主主義者とsぢ手、悪法も法なり、ルール違反であることをお詫びしますが
To RAMさん
>鈴木、
>>もしも、福島さんが、その実践が靖国参拝だと考えているとすれば独善を通り越して偏見ですね。
>
>真の民主主義者は、他人の信仰のあり方を「独善・偏見」とは言わない。
真の主主義者は、自らの信仰を守りたいと考えるときに、他人の信仰も尊重するものです。
みずからの信仰を守ることは大切ですが、他の宗教の信仰を無視する人は、民主主義者ではないでしょう。
>言葉に出して批判する、おまえのコメント自体が、おまえの言う
>「民主主義」から外れた行為だと知れ!
民主主義には、権利とともに、常に責任が伴うことを忘れてはいけないよでしょう。
自らの権利は、他人への尊重という強い責任を伴っているようです。
削除ついでに
> 民主主義者として、悪法も法なり、ルール違反であることをお詫びしますが
>
>To RAMさん
>>鈴木、
>>>もしも、福島さんが、その実践が靖国参拝だと考えているとすれば独善を通り越して偏見ですね。
>>
>>真の民主主義者は、他人の信仰のあり方を「独善・偏見」とは言わない。
> 真の民主主義者は、自らの信仰を守りたいと考えるときに、他人の信仰も尊重するものです。
> 自らの信仰を守ることは大切ですが、他の宗教の信仰を無視する人は、民主主義者ではないでしょう。
>
>
>>言葉に出して批判する、おまえのコメント自体が、おまえの言う
>>「民主主義」から外れた行為だと知れ!
>
> 民主主義には、権利とともに、常に責任が伴うことを忘れてはいけないでしょう。
> 自らの権利は、他人への尊重という強い責任を伴っているようです。
>
>これって、福島さんが神道信者であるということですよね。
鈴木さんは一神教徒なんですね。このブログ内容で福島さんを神道信者と決めつけるのは少し平均的日本人の感覚からはずれているような・・・・
八百万の神が存在すると素直に信じることができるひとと、神社に参ることが思想信仰の自由に反する、あるいは自分の信じる宗教に相反すると思うひととは宗教観において相交わることはないと思います。
多分それはバチカンでは逆になっていると想像します。
私は平均的な日本人として、神社に行けば魂が清められるし、仏閣に参れば仏の慈悲の気持に打たれる。また、カトリック教会に行けば荘厳な雰囲気に感動する。
いい加減な宗教観だと一神教の信者から非難されても甘んじて受けるしそれを直すつもりもない。
日本で生きていく上で、それで何か不都合があるだろうか。
To fts01さん
>To 鈴木 茂さん
>> 民主主義者が、思想信条、信教の自由に配慮し、神も仏もキリストもいない、ただの箱の追悼施設を作ろうとすることの、どこがおかしいのでしょうか。
>> 私にはわかりません。
>
>全部おかしい。税金を使わずに個人で勝手にやる分には作ること自体は良いでしょうが、死人との約束を生者が勝手に反故にするがごとき行いに賛成する者は居ない。
>逝った者との約束は「靖国で会おう」だったのだから靖国でないとおかしい。
>靖国で祀られる約束があって命を懸け、亡くなった方々に対する冒涜だ。
落ち着いて考えればわかることですが、「靖国で会おう」と言った人々は、宗教的洗脳を受けた人々です。
「靖国で会おう」と言わなかった人々はどうしますか。
>国家の責任ある立場の者が国として約束したのだから、靖国で祀り、維持し参拝すべき。
では、お尋ねしますが、国家の責任ある立場の者は、戦争に負けたら靖国神社を一宗教法人にすると約束したのですか。
私は靖国神社を国立の施設とすることには賛成ですが、靖国神社が一宗教法人である以上、国立の追悼施設を建設するという考えが国民の間に浮かぶことは、民主主義国として当然だと思っています。
>それを支那朝鮮如きに文句を言われることではない。死人に鞭打つメンタリティは日本古来のものとかけ離れている。それを基準にする必要は皆無。日本は日本らしく。それが民主主義だろうに。
あなたは民主主義を知らないようですが、民主主義とは、過去も未来もない、すべて公平公正から思考を始める制度です。
極端にいえば、昨日まで正しいと思われたことが一日にして否定されるのが民主主義制度の多数決原理です。
To flying-showboatさん
>>これって、福島さんが神道信者であるということですよね。
>鈴木さんは一神教徒なんですね。このブログ内容で福島さんを神道信者と決めつけるのは少し平均的日本人の感覚からはずれているような・・・・
>
>八百万の神が存在すると素直に信じることができるひとと、神社に参ることが思想信仰の自由に反する、あるいは自分の信じる宗教に相反すると思うひととは宗教観において相交わることはないと思います。
>
>多分それはバチカンでは逆になっていると想像します。
>
>私は平均的な日本人として、神社に行けば魂が清められるし、仏閣に参れば仏の慈悲の気持に打たれる。また、カトリック教会に行けば荘厳な雰囲気に感動する。
>いい加減な宗教観だと一神教の信者から非難されても甘んじて受けるしそれを直すつもりもない。
削除ついでに、
あなたは能天気な人のようですが、あなたの文章を読む限り、多少の違いはあれど、あなたは神道信者であり、仏教信者であり、キリスト教信者であるようです。
民主主義者であれば、誰も、あなたを非難する人はいないでしょう。
>日本で生きていく上で、それで何か不都合があるだろうか。
何の不都合もありません。お幸せに。
私の実家は仏教です。浄土宗。でも父方の祖父は本籍地・滋賀のとある村の神社をつくるのに寄進したかなにかで、祖父の扁額がある神社があり、「おじいちゃんの神社」と呼んでいます。我が家はお盆にはお墓参りと一緒にその神社にも御参ります。そんなにへんかな?私は最近、どちらも御参りにいってませんが、母が必ず「あんたの分もまいっておいてあげたから」と電話をくれます。
私のあらい文章のせいで、うまく意味を理解されていない方もいるようですが、私は参拝したくない人に参拝しろといっているのではありません。もちろん信仰・思想の自由を尊重すべきです。ただ、参拝したいんだけれど、哀悼をささげたいのだけれど、そこにいくと政治的外交的にまずいから、参拝しても中国や韓国から文句をいわれない別のものをつくったらいいんじゃない?という発想は、あまりに安易じゃないかということなんですけど。
あと、神社は異教徒の方の参拝を拒むんでしょうか。麻生首相はクリスチャンですが、神社がお好きだそうです。番記者もしらない時間(すごい早朝)とか、近くの神社とかいってさい銭なげて御参りしている、という話を首相周辺から以前きいたことがあります。クリスチャンの方も、神社に参拝してもかまわないみたいです。
To 福島香織さん
政治的外交的にまずいから、参拝しても中国や韓国から文句をいわれない別のものをつくったらいいんじゃない?という発想は、あまりに安易じゃないかということなんですけど。
↑
はい
「靖国イコール戦争賛美」だと捻じ曲げる人に迎合することはありません
A級戦犯なるものは戦勝国の報復裁判が産んだ鬼子であり、それをもって靖国を否定するのは卑劣のきわみというもの
いつの日にか、周恩来が靖国に参拝した時のように中国の空気も変わることでしょう
政治オタクの新聞記者の
15日は熱い
自然?
庶民の私は
鳥のさえずりが始まり
セミの声が大きくなる
すでに空は明るくなった
自動車がセミと競い始める
車の音が消え、波の音で一日が終わり
また新しい一日が始まった
おはよう
それとも、おそよう?
早朝の心地よい風
それが貴方には欠けている
それを貴方は書けない
貴方には政治が有って
自分が有るだけ
でも身近な音が無い
窓を開ければ
風が音を運んでくる
To 福島香織さん
> 私の実家は仏教です。浄土宗。でも父方の祖父は本籍地・滋賀のとある村の神社をつくるのに寄進したかなにかで、祖父の扁額がある神社があり、「おじいちゃんの神社」と呼んでいます。我が家はお盆にはお墓参りと一緒にその神社にも御参ります。そんなにへんかな?私は最近、どちらも御参りにいってませんが、母が必ず「あんたの分もまいっておいてあげたから」と電話をくれます。
>
> 私のあらい文章のせいで、うまく意味を理解されていない方もいるようですが、私は参拝したくない人に参拝しろといっているのではありません。もちろん信仰・思想の自由を尊重すべきです。ただ、参拝したいんだけれど、哀悼をささげたいのだけれど、そこにいくと政治的外交的にまずいから、参拝しても中国や韓国から文句をいわれない別のものをつくったらいいんじゃない?という発想は、あまりに安易じゃないかということなんですけど。
>
私の知る限り、創価学会の人は信仰上の理由で神社に参拝しないそうです。
それは放っておけばよいと言うのでしょうか。
そういう人が靖国神社の寿命を縮めているのではないでしょうか。
靖国神社を守りたいのであれば、民主主義にたいして謙虚になるべきだと私は勝手に思っています。
追伸
鳥のさえずりが始まり・・・・
は使い回しです
To 福島香織さん
意味を理解していないのではなく、論点が違うのだと思います。
> 哀悼をささげたいのだけれど、そこにいくと政治的外交的にまずいから
ではないのです。 そういう対外的な点もないとはいいませんが、より重要なのは、日本人のなかで哀悼をささげたいけれど、信仰上の理由で神社には参拝できない人々が出てくるという点です。 神社が参拝を拒むかという問題でもありません。 哀悼する側の心の問題です。
福島さんはご存知とは思いますが、特にキリスト教やイスラムなど一神教系の宗教では、祖霊が『神』とされてしまう点は認めがたいと思われます。
それでも、そういう方たちにも哀悼の意をささげたい親族がある方もあるでしょう。 そういう人々に靖国は心の中で踏み絵を踏ませてしまうのだといっているのです。
だからこそ、誰にも踏み絵を踏ませない、包容力のある無宗教の哀悼の場が必要だと思います。
To yuzu21さん
まあ、そういわれると、もう施設なんか必要ない、清潔に掃除した部屋で、静かに座って、心の中で哀悼される方がいいのではないかと思われます。じっさい、みんな、家にいても黙祷したりしますもんね。
祈りの場というのは、人工的にはいどうぞ、とすぐ出来るものではなく、それなりに歴史というか時間の流れが必要と思われます。つまり、大勢の人が訪れてそういう哀悼の気分にひたれる場所というのは、人工的というより、自然とそうなったものが多いのではないでしょうか。日本人の場合、というより私の場合、やはり神社仏閣にそういう気分をもちやすいと思います。
他宗教なのに、あるいは靖国神社を拒否しているのに、心ならずも祀られている方とその遺族についての問題は確かにあるようです。だけど、今議論になっている追悼施設の考えは、建前はどうであれ、首相や閣僚が、中国などから非難されず、なおかつ国内的にも堂々と哀悼の姿をアピールできる場をつくりたいゆえの議論ではないのかな。あるいは外国の要人が訪日したとき、訪れてもらうためとか。
生きている人はそれぞれ自分の立場でものを云えばいいし、
幸い日本国内では根拠ない誹謗中傷でなければ、
政府の批難でさえ言論の自由を保証されています。
ゆえにこのような「靖国」に関する議論も賛否を含めて
なされてている幸せを、中共や北朝鮮・ロシアの出来事を
見聞きし、尚更のこと感じます。
命をもってその礎を築いてくれた先人達に頭を垂れます。
遺骨も拾ってもらえないかも知れない、勝ち負けもわからない
ただ家族のために戦場に向かう若者は「靖国で会おう」と
交わしたそうです。
死人に口なし、死者を鞭打つことのできない日本人にどうして
「靖国での再会」を邪魔することができるでしょうか?
携帯やメールで気軽に連絡のとれない時代に御霊たちは、
靖国にしか来られないはずなのに
どうしてことわりなく他所につくるという発想ができるのか?
靖国神社には江戸時代からの戦没者や外国の方、
戦勝国に一方的に断罪された所謂戦犯の方も祀られています。
連綿と祀られてきた戦没者、死者に対する畏敬の念が
少しでもあれば、今更他所が五月蠅いからどこかに移そう、
などという軽々しいものの云い方はできないと思います。
To 福島香織さん
そうですね、私も神社・仏閣には自然に敬虔な気持ちを抱けます。 ただ、靖国は…
どうしても、明治2年の創建以来国家によって国策のためにあった歴史が気になってしまうのです。
でも、今まで国に貢献された方、戦没された方を哀悼する場が、国としてあるべきだとは思います。 個人として部屋の中で悼むだけてなく、国の象徴的な場所はあるべきだでしょう。
ただ、それは兵士として死んだ方だけではなく、国家の行為としての戦争の結果として戦災で亡くなった方や、戦争以外で国に貢献して殉職された方(警察や消防など)、将来戦争ではないにしても日本の国としての活動でなくなってしまう可能性、そういった過去から将来へ包括しての場であってもいいのではないでしょうか。 人工的かもしれませんが、靖国が創建された最初も、自然発生的な神社というわけではありません。
そういう場でなら、誰がどう参ったかなど、政争の具や外交論議の的にならず、純粋に哀悼をあらわすことができるのではないかと思いますが、いかがでしょう。
横から失礼します。
靖国神社にこだわりがあるのであれば参拝なさらずに
ご自分の気の済む場所で戦没者を悼めばいい。
靖国神社に参りたい方はそこへ参ればいいし、
日本はそういうとても自由な国です。
貴殿が靖国に参拝しなくても誰からも批難されないし、
靖国神社へ参拝する人は誰からも批難されない自由が
日本にはあります。
貴殿が参拝したくなくてもそれでいいのです。
どういう場を設けようと、自国の都合で批難する国は
何度でもするだろうし、日本国内にも批難する人はいます。
批難されたから別につくるのですか?
他人のいいなりになっていればきりがありません。
まず自分がどうしたいかで、他人は関係ありません、
他人の権利を侵さないかぎり、それが自由というもの。
そういう自由を与えてくれた死者に報いる思いがあれば
いいのでは?
日本の神社は誰でも受け入れOKのとても自由な場ですよね。
日本の場合特殊なのは、靖国神社がお墓では無い点と、軍人のみが対象では無い点でしょうね。
お墓については各家庭で好きに埋葬してください、埋葬してくれる人のいない無縁仏の方々については国家で千鳥が淵に埋葬します、それとは別に国家のために殉じた方々(A級戦犯やB,C級戦犯、戦死した一般兵士や将校たち、軍属として従事していて亡くなられた方々や疎開中に米軍により殺害された学童など、対象については時代に即し拡大してきましたが)に対して国家が感謝と鎮魂の祭祀を取る対象として設立されています。
ですから「国家が国民に靖国神社での祭祀を強要している」訳ではなく、本来は「国家が自らの指示で命を落とされた方々の祭祀を行う場所」であって、参拝したい方々にも開放しているだけなんですよね。
明治時代に設立されたのは、単に日本が統一近代国家となったのが明治だからであって、それ以前は各藩等が自藩に殉じた方々を祭られていたでしょうし、神道形式となったのは単に当時の日本人(現代でも最大公約数を取ると神道形式になりますが)にとって最も普遍的な祭祀の方法(文化)であったからで、各家庭については各々自由に埋葬祭祀しています。
靖国神社参拝に反対する例外的な国家は、近代国家として未成熟なだけでしょうし、反対する個人はこの埋葬祭祀は各家庭で行っていることを知らないか、意図的に無視している人々(おそらく反対するための理由にしている方が大半でしょう)がほとんどでしょう。
例えばバチカンは、カソリックの方々(勿論がちがちの一神教の信者)が靖国神社に参拝しても教義に反しないと指摘し、教皇の特使が参拝しているくらいですから。
強大な権力を持つ国家が自国の安全と繁栄、つまるところ大多数の国民の利益、を求める過程で生じた犠牲に対し、自国の文化に見合った方法で感謝することに、反対があることの方が理解できません。
そういえばいま思い出しました。
わたしも靖国神社遊就館に行ったことがあります。あれは中学の修学旅行のときだったか。
そのとき阿南大将が自決した時の血染めの軍服が展示されているのを見たことを、今もよく覚えています。確か二階でしたね。階段室は吹き抜けでした。あれは遊就館だったんだ。
大学入試のときにも靖国神社へは行ったけど、その時は、近くのインドカレー屋の卵カレーが堅ゆで卵で、しかもやたらと辛かった事しか覚えていません。あの店まだあるかな。
>鈴木さん
削除ついでに、
あなたは能天気な人のようですが、あなたの文章を読む限り、多少の違いはあれど、あなたは神道信者であり、仏教信者であり、キリスト教信者であるようです。 民主主義者であれば、誰も、あなたを非難する人はいないでしょう。日本で生きていく上で、それで何か不都合があるだろうか。 何の不都合もありません。お幸せに。
あんたなんかに能天気と言われる筋合いはない。
あんたの書いている文を読むとつくづく、盲信的民主党支持者がバカであることがよーくわかる。小学校から社会科の勉強をやり直せ。
To flying-showboatさん
おはようございます。
>>鈴木さん
> 削除ついでに、
>あなたは能天気な人のようですが、
>
>あんたなんかに能天気と言われる筋合いはない。
>
あれは、冗談です。
何の心配もいらない。
大切なことは、他人が能天気だと言おうとも、その言葉に惑わされることなく、本人が、しっかりと、能天気だと指摘された事柄に、能天気ではないことを論理的に説明することですね。
能天気だという指摘に対して、あんたに言われたくないでは、論理性は皆無ですね。
私の言っている意味が分からないようなら、もしかすると能天気かもしれません。
あしからず。
>小学校から社会科の勉強をやり直せ。
小学校は一度卒業しても(義務教育の)
再入学できるのでしょうか?
給食出るから、失業者の方は再入学で給食の時間だけでも行けば一食浮きますね
教科書はどれを推奨されるのでしょう?
「終戦記念日」という呼称に永年違和感を感じ続けています。
調べてみると『戦歿者を追悼し平和を祈念する日』と言うのが正式で、通称はやはり「終戦の日」と言うのが正しいのではないかと考えています。
「終戦記念日」と言う祝福の意味合いの強く感じられる意味合いの呼称は、いつ使われ出して?いつの間に定着していったのか?、興味を持っています。
この件についてTBを送ります。
To 福島香織さん
> 他宗教なのに、あるいは靖国神社を拒否しているのに、心ならずも祀られている方とその遺族についての問題は確かにあるようです。
靖国で合おうといって死んでいった人たちがいるのだから別の施設などを作らずに「靖国」にこだわるのは正当性もあろうかと思いますが、「神道」にこだわる必要があるのかどうか、というところがもうひとつのポイントかなと思います。
「弥生慰霊堂」については、いかにお考えですか。
To 鈴木 茂さん
> 能天気だという指摘に対して、あんたに言われたくないでは、論理性は皆無ですね。
感情の表出それ自体に「論理性」は必要ないと思うのですがね。
ユングは「感情は合理的である」といっていますが、しかしそれでも、感情を持つ側が、すべてをロゴスに置き換えることはできないと思います。それでも努力はすべきでしょうが、それが出来ないから神経症なり、なんなりが出るんでしょう。
言語化にこだわるならば、むしろ感情を受けてたつ側の人間が、余裕を持って、相手の喜怒哀楽の感情の「源泉」となっている部分を見抜くべきものでしょう。だから、言語化の責任の「一端」は他者の感情を分析する側にあると思うのですが。相手はそれが出来ないから何らかの「うまく言語化できない感情」を持ったのでしょうから。
それを相手だけの責任にすることは、そこで「対話」を終わらせたいという「受け手の感情」でも、あるんでしょうけれど。
To sasurai1950さん
>To 鈴木 茂さん
>
>> 能天気だという指摘に対して、あんたに言われたくないでは、論理性は皆無ですね。
>
>
>感情の表出それ自体に「論理性」は必要ないと思うのですがね。
>
>ユングは「感情は合理的である」といっていますが、しかしそれでも、感情を持つ側が、すべてをロゴスに置き換えることはできないと思います。それでも努力はすべきでしょうが、それが出来ないから神経症なり、なんなりが出るんでしょう。
>
>言語化にこだわるならば、むしろ感情を受けてたつ側の人間が、余裕を持って、相手の喜怒哀楽の感情の「源泉」となっている部分を見抜くべきものでしょう。だから、言語化の責任の「一端」は他者の感情を分析する側にあると思うのですが。相手はそれが出来ないから何らかの「うまく言語化できない感情」を持ったのでしょうから。
>
>それを相手だけの責任にすることは、そこで「対話」を終わらせたいという「受け手の感情」でも、あるんでしょうけれど。
ご意見拝聴いたしました。
ユングがどのような人かは私にはわかりませんが、私は私の意見を書きます。