反右派闘争から半世紀、中国式民主を考える①

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■中国は一党独裁の正当性を主張する初の「政党白書」をこのほど発表した。これをみていると、半世紀あまりのあいだ、中国のいっていることは、ほとんど何もかわっていない気がする。しかし、中国をとりまく国際環境、そして国内の経済、人心、価値観、情報量などは天地がひっくりかえるほど激変した。共産党の主張だけ変わっていないってどうよ!!とさけびつつ、これから中国式民主についてちょっと考察してきたい。やや理屈っぽい原稿になりそうなので、途中で寝たいひとは寝ていいですよ~。

■反右派闘争ってなに?
共産党の独裁はいかにはじまったか。
知りたい人は、
「嵐を生きた中国知識人 〝右派〟章伯鈞をめぐる人々」
を読んで!

■ちょうど今から半世紀前に、中国では反右派闘争と呼ばれる政治運動があった。思えば、中国共産党の独裁と、その政治よる中国の厄災はこのとき決定づけられたと思う。だから今、中国が直面する様々な問題を考えるとき、振り返り、研究すべきは、やはり反右派闘争なのだと思う。ただ残念なことに、文化大革命や天安門事件ほど、日本人の関心をひいていない。そこで、おすすめしたい良書が、最近、日本で出版された。


嵐を生きた中国知識人

■原題は「往事並不如煙(往事は幻ならず)」(大陸版)「最後の貴族」(香港完全版)。作者は、反右派闘争で失脚し、死後の今も名誉を回復されていない章伯鈞氏の末娘、章詒和さん。翻訳者は元NHK香港特派員で熊本学園大学東アジア学科の横澤泰夫教授。中国書店刊で3800円(税抜き)。

■まずこの本の宣伝をさせてください。章詒和さんは、以前このブログでも取り上げたが、私が北京でお会いした女性知識人の中では、最も印象深い人のひとりだ。1942年、重慶生まれ。彼女の父、章伯鈞氏(1885~1969)は民主諸党派のひとつ、民主同盟の第一副主席。事実上の民主諸党派トップだ。交通相まで務めた政治家で、民主同盟機関紙・光明日報の社長として、報道の自由も志した。しかし、1957年に起きた反右派闘争で、〝筆頭右派〝としてもっとも激しく攻撃され、死後の今もその名誉は回復されていない。詒和さんは、中国戯曲学院を63年に卒業したあと四川省川劇団芸術室に配属されたが、伯鈞の娘であるゆえ、文化大革命中の69年に反革命罪(懲役20年)で投獄される。出獄したのは文革終了後の78年。その後、中国芸術研究院の研究者となった。

■過去についてほとんど語ることのなかった詒和さんだったが、還暦を迎えて回顧録を発表しはじめた。この回顧録について、詒和さんはこう述べている。「1957年以降の私は、同窓の友との友情もなく、社会的な交際もなく、精神的な楽しみもなく、異性との愛情の日々もなかった。それ以降は孤立させられ、拘束され、叩かれ、刑罰をくだされ、父を喪い、母を喪い、夫を喪い…。数十年間、私はただ心に向かって生活を探しもとめた。心の生活とは何か。それは回想である」「還暦の齢をむかえて、ひとりぼっちでこの世界に向き合っていて、私はついにこの世を生き抜くすべを見いだした。それは書くということである…」

■激動の時代に翻弄され、孤独と喪失感の中で長い時間、ひっそりと続けてきた回想をまとめた最初の著書が「往事並不如煙」(人民文学出版社刊、2003年12月)だ。しかし、反右派闘争に関する研究、批判が未だタブーの中国で、原稿の10パーセント以上に当たる2万字の削除という自主規制を余儀なくされた。しかも、その出版後2ヶ月で、再版禁止という事実上の禁書処分となった。この書が世にでるのを手伝った雑誌編集者、丁東氏はいまだ当局の厳しい圧力、監視をうけている。しかし、そのわずか2ヶ月でこの本は30万部売れるほど大ヒットした。その後も海賊版をいれると200万部以上売れたと推計されている。2004年に削除部分を補った完全版が香港から出版され、華人社会で同書の評価は不動のものとなった。

■同書は禁書処分にあいながらも、なぜこんなに売れたのか。読者の共感を呼んだのか。ひとつは詒和さんの筆致に胸に迫るをもの感じるからだろう。章伯鈞氏はじめ反右派闘争で運命を違えた人々への鎮魂の思い。中国共産党の政治のむごさへの怒りととめどない悲しみ。淡々と書いているようで、圧倒的な量の記憶と人物描写の詳細さに、否が応でも感情移入させられてしまう。「筆をとれば涙は流れ続け、止めようがなく、病にかかったようになってしまった。なぜなら、一つのありふれた言葉にも常に寒い夜のとめどもないおののきが秘められているからだ」(前書きより)。読後感がずしっとくる。この本をよめば、共産党独裁が確立した反右派闘争の過程、そしてそれに続く文化大革命について、人間ドラマとしての側面から理解が深まるはずだ。

■さて、その章さんに最近会って、先月に閉幕した第17回党大会についての見方など聞いた。その一部は、11日の日曜オピニオン面で引用している。
彼女は、党大会とそこで打ち出された「民主」という言葉について、こう語っている。

■「私が思うに、民衆が期待している民主、知識分子のいう民主、17大会の報告書でかかれた民主、17期政権が行うことのできる民主。この四つは同じではありません。いえ、その違いは非常に大きい。これは、私だけの意見ではなく、17大会後に私が意見を交わした学者や教授らが、おなじように感じていることです。17大会の政治報告を読んだある党員は、〝政治報告は前進も後退もしなかった〟と言っていましたが、そのとおりだと思います」。

■この4つの民主はおそらく、どれも西洋の、いわゆるデモクラシーではないと思う。でも、それはよいのだ。日本の民主だって、米国の民主とは違う。国民の気質や歴史、伝統文化にあわせて、その解釈や概念が変わってくるのはあたりまえ。ちなみに、中国共産党がいう社会主義だって、日本共産党がいう社会主義と違うし、マルクス・レーニンがいった社会主義とも違う中国式、毛沢東式社会主義だ。

■この4つの民主の違いについて、章さんから明確な説明をその場でうけたわけではないが、これまでの文脈からさっするに、
①知識分子のいう民主=共産党の独裁防止を目的とする民主政治システム。共産党外組織の政治参与など〝多党制〝や報道の自由、全人代の議会の国会化なども含む。1950年代は社会主義体制下で民主政治が可能と信じられていた。

②民衆が期待している民主=官匪による圧政、搾取から、人民の民主的権利が守られる政治。言論、表現、学問、宗教、集会の自由なども含む。「法治によって普通の人々の民主的権利が侵犯されず、侵犯しない生活方式」(by周勍氏)。これが一番西欧の民主主義に近い、という見方も。

③第17回共産党大会の政治報告に書かれている民主=党内民主。党の独裁と社会主義の看板をあくまで固持しつつ、改革開放による腐敗、利権の集中を緩和。党内の相互監視により清廉政治を実現し、民生重視の政策により、人民の人権(生存権)を擁護する。

④第17期指導部が行える民主。現実には、これまでと変わらない。共産党は利権を手放せなず、汚職問題は解決できず、地方の圧政・搾取による官民衝突も増加。経済発展を維持し、五輪、万博、月探査や有人飛行など国威発揚イベントで国民の不満をそらし、歓心におもねる「パンとサーカス」式政治で、現状維持。

と分類できるのではないか。

■この4つの民主のうち、知識分子のいう民主で、一番早期に提示されたものが、半世紀前に章伯鈞氏らが訴えた民主だと思う。中国の民主を考える上で、彼らの民主の理想とその挫折は、中国式民主の問題の原点だろう。まず、1957年当時に民主同盟が言い出した民主とはどういうものかを説明したい。

■まず、中国民主同盟とはなにか。その源流は、中国国民党の一党独裁に反対する都市知識人が1939年に結成した愛国人士団体「統一建国同志会」にさかのぼる。1941年に中国民主政団同盟、44年に民主同盟と改組、改称された。1940年代には、こういった社会主義を擁護する民主派愛国人士団体が次々と設立され、民主諸党派とよばれる。

■8党・団体あり、その中心が民主同盟だ。民主諸党派は、国民党独裁を打ち倒し、平民政権をうちたて、平等な社会主義の理想社会を実現していくという(建前の)共産党を支持し建国に協力。1949年、国共内戦で勝利を収めた共産党が政権を樹立したとき、共産党はこれら民主諸党派と共闘で社会主義体制を安定させてゆくとしていた。共産党内部ではすでに、毛沢東の独裁志向は現れていたのだが、このときはまだ表だってはおらず、民主同盟は、社会主義民主の実現を夢みていたのだ。たとえば、章伯鈞氏が社長を務める民主同盟機関紙の光明日報は、新華社だけにたよらずAPなど外国の通信社なども使って、報道の自由を実現しようと努力している。また、このころの閣僚には非共産党員も含まれていた。章伯鈞氏は交通相だ。

■しかし、建国後、次第に共産党独裁色が表面化してくる。中華人民共和国はその建国時に、新民主主義の国であり、人民民主独裁(プロレタリア独裁)を実行するものと定義されている。しかし、この人民民主独裁の本質が共産党独裁のセクト主義であることが徐々に明るみになってきた。民主同盟は、国民党独裁に反対し、共産党の建国を支援したのに、専横から逃れたらまた専横に陥る、という状況に危機感をもっていた。「共産党の指導のもと民主諸党派が協力して共産主義の理想を実現する」という建前の中で、民主同盟がどうやって教条主義に陥らず、共産党に対する監督機能を維持するか、というのは心ある民主同盟メンバー、つまり章伯鈞、儲安平、羅隆基らが直面する切実な問題だった。

■ところが、1956年、こういった民主同盟メンバーを勇気づけるできごとがおこる。同年5月、毛沢東は「百花斉放・百家争鳴」(双百)の大衆運動を改めて打ち出した学術、芸術、文化などの方面で違う立場の理論、学説など知識人に忌憚のない意見をだしてもらうことを歓迎するというのだ。さらに毛沢東は1957年2月27日、毛沢東は最高国務会議で、次のような講話を行った。「今後中国では、政治では〝団結-批判-団結〟を実行する。中国共産党と民主派は〝長期共存、相互監視〟を実行する。科学文化領域では、〝百家争鳴、百花斉放〟を実行する」。つまり、共産党に対して、言いたいことがあったらいいたまえ。われわれは批判を受け入れる準備があるよ、ということだ。これは4月、「整風運動の指示」という形で党中央が発表した。

■この講話はスターリンの過ち(独裁、個人崇拝、激しすぎる粛正)を総括するという建前で行われたのだが、これを聞いて章伯鈞氏は「(この概念を)うまく運用すれば、社会主義の民主生活スタイルを打ち立てることができる」と興奮したそうだ。

■この毛沢東の呼びかけに応じて、章伯鈞氏は「政治設計院」というアイデアを出した。これは、中国人民政治協商会議、人民代表大会、民主党派、人民団体を政治上の四つの設計院として、共産党と政府は、これらの政治設計院を通して政策上の意見交換をし、問題解決をはかるべきだという意見だ。有り体にいえば、共産党以外の政治団体に政治参与させろ、ということで、与党・共産党に対して、野党の役割を民主諸党派が担おう、というものだった。社会主義体制下で可能な一種の多党制構想だといっていいと思う。

■さらに、当時の民主同盟機関紙・光明日報の総編集長の儲安平氏が後に「党の天下」と呼ばれる論文を1957年6月1日の光明日報などに掲載した。内容は次のようなものだ。

・「建国来の数年、党と大衆の関係は好ましくない。この問題の鍵は〝党の天下〟という思想問題にある。党が国家を指導することと、党が国家を所有することとは同じではない。我々は党を擁護するが自分たちも国家の主人であることを決して忘れない。政党が政権を勝ち取る重要な目的はその理想を実現し政策を推進することにある(できなきゃ、政権党である意味がないというニュアンス)」

・「現在、全国的な範囲で、部門の大小を問わず、共産党員をトップにすえ、何事も共産党員の顔色をうかがわねばならないのはやりすぎではないだろうか」

・「党外人士は党と歩むことを願っているが、党とともに歩むのは、党の理想が偉大で、政策が正しいからであって、自尊心と国家に対する責任感がないということではない。」

・「この数年来、多くの党員の才能とかれらが担当している職務の釣り合いがとれておらず、党と大衆との緊張を激化させている」

・「すべて党の天下、という思想は、一切のセクト主義現象の究極的な根源であり、党と党外の間の矛盾をつくりだしている」…

完璧な一党独裁批判である。

■また、民主同盟で章伯鈞氏につぐ地位にあり、国家森林工業相でもあった羅隆基氏は「平反(再評価)委員会」をつくるべきだと主張した。これは、「三反」(汚職・浪費・官僚主義反対)「五反」(贈収賄・脱税・国家資源窃取・手抜きと材料のごまかし・経済情報摂取反対)「反革命分子弾圧」など過去の政治運動のなかでえん罪をうけた者の名誉回復を検討する委員会で、メンバーは共産党、民主諸党派、民主人士で構成されるべし、とした。共産党による司法の暴走をなんとか食い止めようという、ものだった。

■この三つの民主同盟の意見(つまり①章伯鈞氏の政治設計院、②儲安平氏の「党の天下」論、③羅隆基氏の「平反委員会」設置)は、当時の知識人たちの強い支持を得ていた。ところが1957年6月8日に人民日報で右派分子の凶暴な攻撃に反撃しよう、とよびかけ、「これはなぜか?」という毛沢東の論文が社説として掲載される。これが反右派闘争とよばれる「知識人・文化人狩り」の開始ののろしだったのだ。

■この後、章伯鈞、儲安平、羅隆基ら、民主政治の理想を訴えていた主要人物は、共産党と社会主義を攻撃する大悪人として、つぎつぎ迫害にあう。特に章伯鈞、羅隆基のことを「章羅同盟」として右派(資本主義)分子の攻撃はここが起源だ、と批判した。実はこの二人、ほんとうはすごく仲がわるかったのだが、毛沢東にセットで攻撃されることで、仲良くなったという逸話もある。

■毛沢東は百家争鳴、百花斉放で、党批判をするよう呼びかけ、これに応じて、共産党のセクト主義化を防ぐための建設的意見を述べた、民主同盟の知識人たちを、こんどは「共産党と社会主義体制を攻撃した」として、手の平をかえしたように批判し、「民主同盟こそセクト主義化している」と批判した。これを、章伯鈞氏は「ひどいペテンにあったようなものだ」「老毛(毛沢東)は私ら(民主派)にけちをつけることで国内の問題を解決しようとした」とのべている。

■彼らは何度も批判闘争会にひきずりだされ、つるし上げにあい、職を奪われた。彼らをつるし上げ、罪状を責め立てたのは、同じ民主同盟副主席の史良女史らかつての同志であった。(その史良は文革のとき、羅隆基に出したラブレターを理由に批判闘争会でつるし上げにあっている)。人の仁、情け、徳というものが一切、かなぐりすてられた醜いおとしめ合いがくりひろげられたのだった。

■この闘争で失脚し、迫害された知識人・文化人・新聞記者らは55万人と言われている。儲安平のように自殺(とみられている)を選んだものも多くあった。それに続く文化大革命では、文字通りなぶり殺された人たちが大勢いた。その数は数百万から2000万人ともいわれている。章伯鈞、羅隆基、儲安平を含む5人がまだ名誉回復されていない。

■反右派闘争とはなにか。その歴史的意味は、と改めて考えると、中国共産党独裁が確立した事件であり、大躍進、文化大革命、第1、第2の天安門事件と続く、長い長い中国の政治的厄災の始まりであり、そして「知識人の民主」の挫折であった、と思う。反右派闘争で、毛沢東の罠にはまり、かつての発言をもとに、仲間同士で批判闘争会が行われ、つるし上げられ、徹底的にいたぶられたことで、知識人は自分の意見を自由に発言する意志、気力を根こそぎ奪われてしまった。「清議」「諫言」は中国封建時代の「士大夫」(科挙に合格した知識人層)の義務であり、存在意義だったが、新中国建国後、共産党は知識人の口封じを徹底的に行い、「諫言」どころか、トイレの独り言の密告ですら、迫害の材料にしたのだ。今の知識人の多くは、すでに共産党の傀儡に成り下がり、私的場面では、共産党の問題点を指摘できても、公的場所では何の発言もできない状況だ。

■ついでにいうと、党がメディアと大学を完全掌握、管理することで知識人たちは共産党の中に完全に取り込まれたうえ、改革開放という劇的な経済体制の変化で、共産党が利権集団化し、共産党=知識人=資本家・利権・金持ち、という構造が確定。本来、農民・工人の利益を代表する共産党は、いまや先進的な文化(知識人)、先進的な生産力(経済・資本家)、広汎な人民の利益を代表する、という江沢民の三つの代表論に象徴されるように、知識人と資本家が共産党員になって広汎な人民の利益を独り占めします、という広域利権集団そのものになってしまった。今の知識分子の多くは、清朝の士大夫以上に腐敗している。

■章伯鈞氏らがとなえたのは、社会主義体制下における民主政治システムであり、あくまで「共産党の指導のもと」という前提で考えられたものだが、彼らの主張していた「報道の自由」、民主党派の政治参与、司法に対する監督システムなどが実際に行われれば、ひょっとすると日本式民主に近いものが、できたかもしれない。章さんは、日本の政治指導者がころころ変わる様子をみて、「目に余る失政を行っても、執政党のトップが責任をとらず、同じ政権が10年以上も続く政治体制の方がよっぽどおかしいわよ」と言っていた。

■さて、知識人の民主は、半世紀前の挫折以来、いまだに後遺症をわずらったまま、起きあがれずにいる一方で、実は民衆の間に民主意識が芽生えはじめている。次回は民衆の民主をテーマに考える。

「反右派闘争から半世紀、中国式民主を考える①」への14件のフィードバック

  1. >民衆が期待している民主=官匪による圧政、搾取から、人民の民主的権利が守られる政治。
    富田という服地メーカーが進出した中国の地方でのっとりの危機にあっているそうです。どうやら裏で地方機関がグルになっているらしい。まさに水滸伝の世界そのままです。強者が公正で弱者が安全な社会、それが民主勢力の目指すところでしょうが、その民主勢力はいまやなく、共産党と国家は運命共同体、共産党が沈めば国家も沈む。この国に未来はあるのでしょうか。

  2. こんばんわ!福島さん。
    長文のご紹介、誠にご苦労様でした。読み応えがありました。
    いまだ中国は、三国志の世界でうごめいているのでしょうか。
    現在は、たまたま共産党が政権を握っていますが、はてさて、今後いかがな状況になるのでしょうか?
    中国の未来が大変楽しみであり、この時代に生まれ、目の前で繰り広げられる中国の政権抗争を見る楽しみに喜びを感じます。
    その前に日本がしっかり、しなくっちゃ!

  3. 右だ、左だ、と相手の中傷合戦によく使われますよね。
    そもそもは社会の仕組みをどうしようかという考えが、歪んだイデオロギー主義に代わっていったのでしょうか。
    様々な社会の仕組みを採用する可能性や考え方はあると思いますが、密告社会、独裁主義、反自由社会はどんな考えの人にとっても最も避けなければいけない選択と思います。
    そのためには、今ある、起こっている現実を、福島さんのレポートのように我々に伝えていただけなくてはいけません。
    大きな国を運営するためにはいろいろなことがあるとは思いますが、少なくとも人の命を己の欲のために奪うことのできる国の体制は最も避けなければいけないものと思います。
    すみません。酔いすぎ・・・
    明日からは某東京国税局での時間労働です。日曜の夜は何歳になってもサザエさんシンドロームで~す。

  4. >この三つの民主同盟の意見
    とは、
    一、共産党と政府は、これらの政治設計院を通して政策上の意見交換をし、問題解決をはかるべきだという意見
    二、党が国家を指導することと、党が国家を所有することとは同じではない
    三、「平反(再評価)委員会」をつくるべきだ
    の三つですね。
    うーん、難しい。

  5. はじめまして。
    いつも楽しく拝見しています。
    いえ、お勉強させていただいております。
    件の書、さっそく取り寄せてひも解いておりますが、
    原著の題名を見て、
    反射的に作家・胡風の夫人梅志さんの『往事如煙』
    (邦訳タイトル『胡風追想―往事、煙の如し』)
    を思い出しました。
    胡風といえば彼も反右派闘争で批判のやり玉にあがり長年投獄され大変な辛酸を嘗めた文学者の一人ですよね。
    『如煙』と『不如煙』。
    「不」の字の重さをしみじみと感じます。

  6. こんばんは、先ほどサポートからのメール返信致しましたことご報告しておきます。お手数お掛けいたしました(いきなり語調が変わるかw)。
    民主主義、ダブルどころかクアドラプル・スタンダードだったのですね。また、甘い言葉の裏には罠がある事の実話も興味深く読ませていただきました。こういうところが、孫子を生んだ中国の奥深いけれど、嫌なところですね・・・もし機会があれば、福島氏が中国に鍛えられ?w、新聞記者として中国に赴任する前と現在で、もの事の見方がどのように変わったか、書いてください。でわ。

  7. To 047696さん
    >いまだ中国は、三国志の世界でうごめいているのでしょうか。
    三国志というより、水滸伝?しかし、拝金主義の蔓延で仁義は失われている状況でしょうか。

  8. To nakashixさん
     民主でなんだ?という問いかけに、「生活方式だ」と周勍さんの言葉をよくよく考えています。普通は、民主主義とは統治システム、と定義されているですよね。でも、庶民の民主とは、実はものすごくシンプル。民衆の権利が侵害されず、侵害しない社会、生活なのだと。社会主義であろうが、資本主義であろうが、民主は否定していません。ただ歴史を振り返れば社会主義体制では、民主は独裁やセクト主義、密告社会に陥りがちだというのが事実なんですが。民主という言葉をつけた政党が民主的かどうか。議会政治や多党制でも全体主義に陥った歴史はありますしね。

  9. To ブリオッシュ或いは出べその親方さん
    そのとおりです。すみません。わかりにくかったですか。

  10. To ailiangunshiさん
    >胡風といえば彼も反右派闘争で批判のやり玉にあがり長年投獄され大変な辛酸を嘗めた文学者の一人ですよね。
    >『如煙』と『不如煙』。
    >「不」の字の重さをしみじみと感じます。
    おそらく、意識してつけたタイトルだと思われます。
    高い本ですが、買って損はないと思います。

  11. To wonder123さん
    >こんばんは、先ほどサポートからのメール返信致しましたことご報告しておきます。お手数お掛けいたしました(いきなり語調が変わるかw)。
    >
    それはよかった。手違い、失礼しました。
    >・・もし機会があれば、福島氏が中国に鍛えられ?w、新聞記者として中国に赴任する前と現在で、もの事の見方がどのように変わったか、書いてください。でわ。
    そうですね~。日本に対する見方や理解も多少かわったかも。

  12. う~ん
    読み応え十分です。暇がなければ読めないブログでした。
    反右派闘争の内容はよくわかったのですが、その前の
    百花斉放・百家争鳴が一体なんだったのだろう、という
    のは以前から疑問でした。
    反対派をあぶりだすための陰謀だったのか、それとも
    本当に批判に耳を傾ける気があったのだけれど、あまり
    にも批判が耳に痛すぎて気が変わったのか??
    陰謀だったとしたら、引っかかった、ということですが、
    後者だとしたら、毛氏の「気まぐれ」に振り回された、
    という、むしろ救いようのない話ですね。
    中国の近代史の非情さの背後には、被害者意識を感じます。
    ずっと米国に敵視され、仲間と頼んだソ連に裏切られる、
    という60年代の中国の情況は、アメリカの庇護の下で
    高度成長を続けていた日本とはあまりにも異なります。
    四面楚歌の連合赤軍が総括という壮絶な仲間殺しに
    走ったのと似ているのかもしれません。

  13. To shimataroさん
    陰謀説はずっとありますが、そう確定できるほどの論拠はそろっていないようです。結果的んはだまし討ちですけどね~。

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