チベット特集:殺劫とはチベット語で文化大革命の意

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■以前、このブログでも取りあげたチベット族の女流作家・ツェリン・オーセル(唯色)さんの著書「殺劫」の邦訳が夏頃、出版されるそうだ。本当は3月にも出版だったんだが遅れている。この翻訳を担当しているのはやはり私の友人で大阪在住の中国人、劉燕子さん。オーセルさんとは劉燕子さんに紹介されて知り合ったのだ。

 

■劉燕子さんは、かつては日中両国語文学雑誌「藍・ブルー」(すでに停刊)の編集者。普通中国人の翻訳家は、日本語の本を中国語に訳す仕事が多いが、彼女の場合、中国の良書を日本語に訳す仕事をしている。中国人としてどんな本を日本人に読んで欲しいか、そういう観点で翻訳の仕事を選んでいるという。彼女のこれまでの訳書は劉振雲の『温故一九四二』(中国書店)、廖亦武の『中国低層放談録』(中国書店)など地味だが、これぞ良書というものばかりだ。

 

 

 

■そんな彼女が今、絶賛して勧めるのが『殺劫』なのである。普通の中国人なら国際社会に知らせたくない中国の暗部といえる「チベットの文革」というテーマなのだが、そういう暗部も知ってもらわないと、日本人は中国人を理解できないだろう。お国自慢に偏りがちな中国人が多い中で、多面的な中国の姿を真摯に伝えようとする希有な中国の友人である。

 

 

 

■本作は原作のレビューについては邦訳出版後、改めてエントリーするとして、作者の唯色さんの生い立ちを通じて、チベット問題というものを考えてみたいと思う。

 

 

 ■オーセル一家三代記

漢族とチベット族のはざまで

苦しみ傷つきながらも

新たに生まれるものもある

 

 

■「殺劫」とは、そのまま訳せば殺し奪うこと。古典・封神演義では仙人に定期的に現れる「殺人衝動」という意味で使われている。しかし、「人類殺劫(レンレイシャージェ)」という中国語をチベット語の発音にあてはめると「文化(レンレイ)・革命(シャージェ)」となる。これは単なる偶然なのか。「四十年的記憶禁区、鏡頭下的西蔵文革、第一次公開(40年の記憶のタブー、ファインダーの中のチベット文革、初の公開)」と副題のついた同書は、チベットにおける300枚におよぶ文革写真に写っているチベット族を探しだし証言をあつめた渾身のノンフィクションだ。そして、解放軍幹部の娘であったオーセルさんの人生を大きく変えた運命の書でもある。

 

 

■年末年始に北京に遊びにいったときの最後の夜、オーセルさんと彼女の夫、これも著名作家である王力雄氏と一緒にごはんを食べたのだが、そのときに、この「殺劫」を書く背景をきいた。

 それは彼女の祖父母の時代にまで遡ることになる。

 

 

(↑オーセルさんと王力雄さん、撮影:福島)

 

 

■オーセルさんは生粋のチベット族ではない。4分の1、漢族の血が入っている。彼女の祖父は国民党軍某部隊中佐副官兵であった。

 

 

オーセル「おじいさんはね、国民党軍の逃亡兵なの。重慶市江津区から1935年、チベット・カムのデルゲ(四川省徳格)地域に逃げてきた。そこで美しいチベット娘を見初め、結婚した。おばあさん、そのとき16歳だったのよ」

 

 

■果たして、それが運命的な恋のロマンスであったのか。ただ祖父には重慶にすでに漢族の妻がおり2人の娘までもうけていたにもかかわらず、そのまま祖母とも3男3女をもうけ、チベット仏教に帰依して生きることを選んだのだった。

 

 

オーセル「2人が結ばれて20年後(1953年?)、祖父は祖母をつれて一度だけ重慶にもどって、前の奥さんとも対面したけれど、結局祖母が漢族地域で暮らすことを嫌がったので、二人して再びチベットに戻ったの。たぶん、祖母が男の子を生んだから、祖父は祖母の方を大切にしたのだと思う」

 

 

■その待望の男の子、長男のツェリン・ドルジェがオーセルさんの父。写真にのこる精悍な風貌はカムパの若者のそれであるが、正確にいえばチベット族と漢族のハーフだ。

 オーセル「父は1950年、13歳のときに共産党軍の少年兵になった。それは祖父の強い希望だった。これからは共産党の時代だからというのが祖父の口癖だったから」

 

 

■毛沢東は「チベット同胞を帝国主義の圧政から解放する」という名目で、1950年、人民解放軍のチベット侵攻を開始したが、その道中、数百人のチベット兵を招集する。その多くは勇猛果敢なカムパの若者だった。そのころの中国共産党は民族自決の原則を掲げており、共産主義に共鳴するチベットの若者は少なくなかったのだ。5000㍍以上の峻厳な山々が連なるチベット地域の行軍は、このチベット族コミュニストたちの道案内や後方支援がなければ到底成功しなかった。

 

 

オーセル「チベット語と漢語の両方を流暢に話せる父のようなチベット族はとても稀少で、父はトントン拍子に出世したのよ」。

 ツェリン・ドルジェは党によって西南民族学院に進学させてもらい、1956年にはチベット軍区選抜の唯一のチベット族士官として北京の建国記念式典に出席。毛沢東、朱徳、周恩来、劉少奇と直接会ったエリート中のエリートである。

 

 

■ツェリン・ドルジェは1965年、結婚する。相手はシガツェ出身の旧貴族の美しい娘だった。

 

オーセルさんはいつも「母はすごい美人よ」といっていたが、彼女のブログにある写真をみると、確かにエキゾチックな彫りの深い顔に独特の気品ただよう美女だった。オーセルさんによれば母は14歳のときに父に嫁いだといっていたが、これはいわゆる婚約であったと思われる。

 

 

■オーセルさんの母親の父親、つまり母方の祖父は、旧チベット政府の閣僚兼チャムド総督であったラルの腹心として、その命をうけ、タルツェド(四川省康定)で商売をしながら、諜報活動を行っていたという。そういう人物の娘が、解放軍のエリート士官と結婚するというのも、数奇な巡り合わせかもしれない。

 

 

■このラル氏は1959年、共産党軍と戦った反乱軍の副司令官でもある。彼は1965年に釈放されたのち、文革終了後は鄧小平氏の福利政策で、チベット自治区政治協商会議副主席にまでなった人物。1980年ごろの鄧小平は、宗教的理由や大地主、貴族として迫害をうけたチベット族の名誉回復、地位向上などを積極的に行うことで、チベット族を懐柔しようとしていたのだ。まだこのころは。

 

 

 

■その旧貴族のお姫様の血筋であったオーセルさんの母親は、中国共産党チベット幹部養成の学校に通っていた。しかし旧貴族出身という出自からすでに「思想上の重荷」を背負っていたという。

 

 

■1966年7月、オーセルさんは生まれた。ツェリン・オーセルという名前は「恒久の光」という意味だ。しかし、彼女はもう一つ、中国名をもっている「程文薩」。文薩とは文革のラサという意味だった。文革のはじまった年、ラサで、解放軍チベット族幹部と旧貴族のお姫様の娘として生まれたオーセルさんの写真の胸には毛沢東バッジがついている。

 

 

オーセル「娘の目からみて、父は模範的な共産党幹部でした。毛沢東思想を誰よりもよく理解し、毛沢東への忠誠も強かった。しかし、父の心の中にはチベット仏教への強い信仰もあった。ダライ・ラマを尊敬していました。大きくなるにつれ、父の葛藤がわかるようになってきた」

 

 

オーセル「父は、文革でチベット仏教寺院が破壊されたり、僧侶が迫害されることに耐えられなかった。あとでわかったことだが、その様子をこっそり大量に写真にとっていた。それは、ばれればただですまない行為」

 

 

■そんな葛藤もあって1971年、父・ツェリン・ドルジェは軍内部のトラブルがもとでラサを離れざるをえなくなり、一家はカムのタウに移住する。

 

 

■父、ツェリン・ドルジェは人民武装部副部長の任についた。母親は思想的に問題があるとして要職にはつけず、新華社書店で本を売っていた。オーセルさんは母の職場で本をいくらでも読むことができたという。もっともこのときの本といえば革命書籍ばかりだった。おかげでオーセルさんは、順調に革命思想に学び、小学校低学年のころは「毛沢東思想宣伝隊」の小さな女優でもあった。母親似の美少女だったのだ。

 

 

■一家が再びラサに帰ってきたのは1991年。父はこのときラサ軍分軍区副司令官。その年、父は突然病に倒れて他界した。オーセルさんはこのとき、父の遺品として大量の写真を受け取った。それは、父が共産党軍幹部という立場と、チベット仏教への信仰の中で苦しみつつ撮影した、文化大革命中のチベットの現実だった。破壊される寺院や仏像。三角帽をかぶせられる僧侶。いくら軍幹部といえど、文革中にこのような写真を私的に撮影し、所持していたことがばれれば危険だ。

 

 

■しかし、オーセルさんにとっては大切な父の遺品。そして、チベット族と漢族のハーフという血と、2つの民族・文化の間にあって危険を冒しながら撮影した写真にこめられた、父の思いをむげにすることもできなかった。

 

 

■当時、オーセルさんは、西南民族学院で中国語文学を専攻し、卒業後は地方紙『甘孜州報』の記者をへて、一九九〇年にはラサの『西藏文学』の編集者となっていた。共産党軍幹部の子女としてよい学歴とよい仕事を得ていた一方で、父の葛藤はオーセルさんのものとなっていた。オーセルさんの書くものには、チベット文化やチベット仏教への尊重、ダライ・ラマへの敬慕がにじむようになってきた。やがてそれがオーセルさんが職を失う原因となるのである。

 

 

■2003年にオーセルさんが広東省の花城出版社から出版した「西藏筆記(チベットノート)」について、中共中央統一戦線部と中央宣伝部は「重大な政治的錯誤がある」として発禁処分とした。そしてオーセルさんに対し、チベット文学聯合協会(文聯)は次のような見解をまとめる。

 

 

■「『西蔵筆記』は宗教の社会生活における積極的な役割を誇張し、美化し、一部の文章ではダライ・ラマへの崇拝と敬慕が表現され、ひいては狭隘な民族主義や、国家統一と民族団結に不利な認識を表明した文章さえある」

 「不確かなうわさ話で旧チベットへのノスタルジーに耽溺している。従って、価値判断を誤り、政治原則から乖離し、一人の作家として担うべき社会的責任と先進的文化を建設する責任を放棄した」

 

■オーセルさんは、連日、精神的拷問ともいえる思想教育を受け、自己批判をせまられ、さらには踏み絵として青藏鉄道を美化する文章を書くことをせまられた。しかし、彼女の目には青藏鉄道はチベット文化を破壊するものとしか思えない。どうしても同意できず、これまでの身分を捨てラサを離れる決意をするのだった。その決意をしたためた手紙を文聯に送っている。

 

 

 

■「(前略)私にはこのような踏み絵を踏むことはできません。踏みたいとも思いません。この踏み絵は作家としての天職と良心に背くものです。たとえラサに残り、受けたくない『教育』を受けても、何の結果も出ません。みなさんに必要のない迷惑をおかけしますし、文聯も上級機関に復命できません。ですから、私はしばらくラサを離れ、他の土地で最後の行政処分を待つことが最善だと考えました。私は自分が決めたこと一切に責任を持つつもりです」

 

■オーセルさんはこの後、辞職。今にいたるまで、思想上に過ちがあるとして当局のブラックリストにのり、パスポートを申請しても許可がおりず、何かあるたびに軟禁状態におかれるようになるのである。

 

 

■一方、この事件が発生する前のこと。父の遺品の写真の取り扱いにからみ、オーセルさんは重大な決断をしていた。

オーセルさん「父の写真をどうすればいいか、悩んでいました。そんなとき、王力雄という作家のことを知りました。私は彼に会ったことがなかったけれど、その作品を通じて勇気と才能のある作家だとわかりました。それで、彼に写真を託すことにしたのです」

 

 

■王力雄さんは1991年に、中国の内戦と再生を描いた『黄禍』を保密のペンネームで著し当時予言小説としてベストセラーになっていた。もちろん国内では発禁処分だが香港で出版された同書は、海賊版が地下ででまわり、たいていの知識人が読んでいる。1998年にはチベット問題をテーマにした『天葬』で国内外で高い評価を得ており、オーセルさんが、彼に写真を託す決心をしたのは、同作におけるチベットの理解の深さであったという。1999年、王力雄さんはオーセルさんから郵送された大量の写真を受け取った。

 

 

■このときのことは王力雄さん自身が、2006年に台湾で出版された『殺劫』の序文に書いている。

 

 一九九九年の暮れも押しせまったころ、オーセルから郵便物が届けられた。その中には数百枚のネガがあった。そのとき、私たちはまだ会ったことさえなかった。
 彼女は手紙で、次のように説明していた。

 「このネガは一九九一年に亡くなった父親が文化大革命期のチベットを撮影したものです。非常に重要なものだとは分かりますが、どのように使えばよいのか考えつきません。あなたには一度もお会いしたことはありませんが、チベットについて書かれたものを読み、このネガを有効にお使いいただけると信じ、寄贈いたします」

 私は手袋をして、明かりの下でネガをよく見た。そして、すぐに結論を出した。私はこれを受けとれない。何故ならば、あまりにも貴重すぎるからだ。

 

 

王力雄「私は彼女に、あなたが書くべきだ、漢族ではなくチベット族のあなたが書くべきだ、と手紙を出した。この写真に写っている人たちを探し出して、話を聞き、チベットの文革を検証する。それがあなたの仕事だといったんだよ。そのために、私も手伝うと」

 

 

■王力雄さんの言葉に励まされて、オーセルさんは、この困難な仕事に取り組む決心をする。おそらく、オーセルさんの運命を大きく変えた「西藏筆記」の出版も、王力雄さんの作家としての姿勢からうけた影響や「殺劫」の取材経験から得たものが大きかったのではないかと思う。

 

 

■約6年の取材をへて『殺劫』は書き上げられた。オーセルさんは代表作を手にいれ、王力雄さんは美しく聡明なチベット族の妻を手に入れた。2005年二人は結婚する。

 

 

■このいきさつを思うと、チベット族作家ツェリン・オーセルを育てあげたのは漢族作家の王力雄さんといっていいだろう。『殺劫』という作品は、チベット族と漢族のハーフであるオーセルさんの父、その娘のオーセルさん、そして漢族の王力雄さんの共同作品ではないかと思う。民族の違いをこえて、あるいはその狭間にあって、文革、宗教や文化、自由や民主について取材し思索し悩み、最後には人類共通の価値観を浮き彫りにした貴重な試みであり、答えではないかと思う。

 

 

■私は、前にも言ったけれど、チベット独立を支持しているわけではない。ダライ・ラマ14世が、多くのチベット族の独立への希望を背負いながら亡命したにもかかわらず、結局、独立をあきらめざるを得ないと決断したことについて、英断だと思っている。チベット問題を単に漢族VSチベット族の対立と憎しみの問題にしてしまうと結局は流血という答えしかでてこないだろう。それは避けるべきだ。

 

 

■チベット族が文革でうけた苦しみは、じつはチベット族以外の民族、漢族もなめた辛酸である。伝統と宗教・文化の破壊も、すさまじい飢餓も不条理な迫害も漢族自身が経験しているし、迫害を受けている漢族は今もいる。ただ、それがチベット族の上におこれば民族問題となる。それは、チベットが世界的な時代の節目の中で、中国共産党に侵攻され併合された複雑ないきさつと、その後の統治プロセスにおける幾度かの重大な過ちのせいだろうと思う。

 

 

■民族問題はどこの国でもあり、その解決はその国の政府自身が過去の民族政策の問題点を洗い出し、認め、改善する以外ない。しかし、その前に民族にも関係なく、あるいは国籍も関係なく人類が共通して求めねばならない価値観というものがある。それが、自分の思っていること、信じることを素直に表現するということ。言論の自由である。その言論の自由をもって、初めて歴史や過去の政治・政策の検証がかなう。

 

 

■オーセルさんも、王力雄さんも、そして同書の翻訳を、中国当局の嫌がらせをうけながらもやり抜いた劉燕子さんも、ものを書く者の良心を全うして、ひとつの歴史の検証をやりとげた。つまりオーセルさんの父が見たチベットの文革というものの実像に迫った。それはチベット族、漢族という枠をこえて言論の自由を尊ぶ者同士が協力して行った価値ある作業だ。結局、チベットの独立にせよ自治にせよ、よりよい解決策というのは、ひとりひとりが自らが誰にじゃまされることなく検証したり議論したり、その過程を発表したりできる言論の自由。それを獲得したいと願うことから始まるのだと思う。

 

 

■またもや、長々書いてしまった。最後まで読んでくれた方お疲れ様でした。これは読者のために書いたというよりは、自分の取材メモや感想を思いつくままに書き留めたようなものなので許してほしい。こんなふうに自分が出会った人、聞いた話、読んだ本から受けた感銘を誰にじゃまされることなく語れる自由というのは本当にいいね。

 

 

■オーセルさんの父母、祖父母の写真は彼女のブログで公開されている。中国語を読める方はどうぞ。

 

 

 

 

「チベット特集:殺劫とはチベット語で文化大革命の意」への6件のフィードバック

  1. 福島記者
    文聯> …価値判断を誤り、政治原則から乖離し、一人の作家として担うべき社会的責任と先進的文化を建設する責任を放棄…
    「政治原則」って単語が批判文に紛れている点でもうまさに…というか…♪
    制圧し終えた土地で発生した事実を綴った文章如きを恐れにゃあならん程ヤワな中共でもあるまいに、6年前ですら(むしろか?)「思想改造」の対象になるのかぁ…
    > こんなふうに自分が出会った人、聞いた話、読んだ本から受けた感銘を誰にじゃまされることなく語れる自由というのは本当にいいね
    全く恵まれすぎているというか…しかし張戎(?)氏や石平氏といいオーセルさんといい中共側エリートの出自を持つ人々からこういった声が発生して来るのも、(限定的とはいえ)やはり自由を享受できるからなのかなぁ…なんて考えてしまいました。

  2. 大変参考になりました。ありがとうございました。
    願わくば、記事や論文ではなくご自分のブログなのですから、「である調」は止めてもらって、女性らしいご自分の言葉で書いていただけたらと思います。

  3. またまた興味深い本の予告編ありがとうございます。
    楽しみにしています。
    文藝春秋社からでしょうか?
    前回ご紹介されていた「兄弟」、非常に面白く読みました。
    とくに後編が好きでしたねーーー。

  4. はじめまして、北京時代からずっと拝読しています。
    今回も大変興味深い記事をありがとうございました。オーセルさんのブログも拝見しました。彼女のお母さんは本当に美人ですね。
    中国国内からも彼女のブログが読めることに感動しつつ、いろいろな記事を読んでいるところです。
    さて、小さなことですが、記事の中にちょっと気がついた点があったので…
    「1965年、ツェリン・ドルジェは20歳で結婚する。相手はシガツェ出身の旧貴族の14歳の美しい娘だった。」とありますが、ツェリン・ドルジェさんは1955年に18歳(オーセルさんのブログ)で1937年生まれのはずなので、1965年、結婚したときには28歳だと思います。お母さんのほうは22歳でしょう。
    おそらく、オーセルさんのお父さんとお母さんは、それぞれ20歳、14歳のときに知り合ったということなのでは。1958年にお父さんが撮ったというお母さんの写真がありましたから…。
    それにしてもオーセルさんと同世代の人間として興味深いお話ですし、彼女と王力雄さんが結婚に至った話も非常に印象的でした。彼女のブログ、これからも読み続けていこうと思っています。

  5. To byakdanさん
    あ、そのとおりですね。ご指摘ありがとうございます。勘違いです。オーセルさんから、おばあさんは16歳、おかあさんは14歳で結婚したのだ、という話をしてメモにものこっています。そのまま、書いてしまいました。結婚年代はそのときあやふやだったので、ブログで確認したので、このへんに誤差が。おそらく20歳、14歳のときに結婚がきまったということかもしれません。訂正させてください。

  6. オーセルがラサでの中共当局の転向強要をのがれてペキンにのがれた事件について王力雄が書いた文章の日本語訳です。
    「王力雄:チベットの直面する二つの帝国主義――唯色事件透視」
    1  http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/ebc323a2b3be7dd75473b82b664f5e5b
    2 http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/36717e1833957b1a2c68912ff4ce4059
    3 http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/97469cf64e2357ea094a0ecc690306a9

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