■チャイナ・デーリー(20日)の1面はイラク戦争開戦5周年の記事写真付きだった。イラクでは市民だけで9万人近く死んでいる。石油の為に遠く離れた中東の国にいって「正義の戦争」をしかけ、大勢のイラク人の血を流した。これが米国の正義なら、ウラニウムの豊富なすでに自国に併合されて半世紀以上たつチベットで、反政府デモを鎮圧して十数人か数十人か数百人が死んだとしても正義だろう?そういいたい気持ちが紙面から匂い立つようだった。
■きのう、私は会見場にいかなかったが定例記者会見で、秦剛報道官が会見でずいぶん吠えたそうだ。「どこの国でも同じことをする」と。それももっともで、どこの国にも民族問題はあり、その弾圧も、正義という名のもとで行われることはありふれている。国際ジャーナリストでコラムニストの高山正之さんもコラム集『サダム・フセインは偉かった』でおっしゃっていたけれど、正義という言葉ほどうさんくさいものはない。そう思うと、やや理想主義におちいりやすい私は、ほんと、落ち込んでくるよ。
■結局、正義はひとりひとりが心の中で信じるものであり、それは他人と尺度と違うことは往々にしてある。中国が「我々は最低限の暴力しか使わず、中国の安寧と秩序を脅かすチベット独立派デモを鎮圧した。これは正義だ」といえば、国際社会が「米国経済がへたりはじめているなか、中国経済が打撃をうけると世界恐慌かも?」と中国擁護にシフトしてくいことも正義なんだ。で、そうなると記者としての私の正義はなにか、と今すごくゆらいでしまう。「ラサで発砲はしていない!」という中国当局の公式発表と、「僧侶が殺された!」という一市民である友人の言葉と、どちらが信憑性があるのか、それすらわからなくなってくる。
■ただ、原点に戻って、記者にとっての絶対正義とは何か、と考えればやはり、「報道・表現の自由」と「人の命」なのである。チャイナ・デーリーの1面写真は「米国よ、イラクから出て行け!」とプラカードをもつニューヨークの米国人大学生のAP写真だった。米国は、「石油のために他国市民を死なせるひどい国」かもしれないが、それを米国内で米国市民が批判しデモ行進する自由があり、それを米国人が写真にとり配信して、外国メディアにも報道させる自由がある。他国市民の死に怒り、嘆き悲しむ感情をもつ米国市民がいる。
■北京では、誰一人として、チベット族の境遇に同情し嘆く人をみかけない。(少なくとも表向きは)「中国よ、チベットに高度の自治をみとめろ!」とプラカードをもって抗議を行う漢族もいないのである。みんな、「チベット族反乱分子に手加減無用!」という正義で一致し、中国政府の掲げる正義と完全に一致して「強い中国」を喜んでいる。尺度の違う正義に批判を行うこと、意見をいうことをこの国の人には許されていない。私はその一点について「それはおかしい」と言うときだけ、自分の正義は確かだと感じる。
『チベット族反乱分子に手加減無用」というのは、そう言わないと自分が危ないからなのか、本気でそう思っているのか。
自由を許すと、バラバラになってしまうというのも、よく聞きますが、本当にそうなのですか。
福島様、こんにちは。
イラク戦争が、全て誤りか否かの判断は、誰にも出来ないと思います。
あのまま、サダム・フセインが独裁政治を続け、金日成のように息子に、権力を委譲する事が正しいとは、思えないからです。
この点では、イラク戦争の正しいと、私が思っている一面です。
しかし、宗派の対立やクルド族問題など、全て穏便に方がつくと思っていた問題が、いまだに解決していない点では、イラク戦争には疑問符がつきます。
これは今後も、解決に向けてイラク・クルドの人々が、武力なしで解決して欲しい、けれど現実問題として、解決の道は遠いと思います。
中国はその矛盾を我々に突きつけておきながら、チベット族の惨殺から、我々の眼をそらそうとしているのだけです。
先に述べた、サダム・フセインを、中国共産党に置き換えて考えると、独裁政治体制を敷き、チベット族などの少数民族を弾圧し惨殺しても良い事にはなりません。
どんなに言葉を弄しても、チベット族弾圧は、正義ではありえないと考えています。
人が10億いれば、10億通りの正義があり、国が100あれば、100通りの正義があると…なるほど、その通りかもしれません。
最後は自分自身の正義に照らして生き、語り、ことを成す以外に無いのかもしれませんね。
私は、自分の正義に照らして
-中国製品を買いません。
-ダライラマを支持します。
反戦・平和・人権団体の掲示板などで、アメリカのイラク戦争
を比較対照にして、中国のチベット弾圧を正当化するような
意見がありますが、福島さんの言うととおり、まったく違い
ますね。 今の中国にマイケル・ムーアは出てこないでしょう。
かつての東ヨーロッパで起きた、「ハンガリー動乱」「ワル
シャワ蜂起」「プラハの春」などの反ソ連共産党支配の民衆蜂起
とまったく同じなのが今回のチベット蜂起だと思います。
20世紀の亡霊がまだ残ってしまい、21世紀の世界を彷徨して
いるような、暗い気持ちになります。
拙ブログの「我々は善人なのか?」という記事で、私たち日本人も搾取する側の人間だと書きましたが、だからといって善も悪も無いとは思いません。
私は、自分や自国の必要のために悪を見逃しますが、それは絶対ではなく相対的な判断の上です。よりマシな状態を望む事が善ではないでしょうか。
中国にとって今回のような騒動は、分離独立という許せない危機だとは理解できますが、もっとマシなやり方があったはずです。多くの人も、そこを批難しているのではないでしょうか。
鎮圧の仕方や、報道・ネットの規制、旅行者への脅しなどなど、中国政府がよりマシな解決を望んでいるように見えません。
アメリカの政府は、イラク問題で国内・国外からも批判されます。それによってよりマシな方向へ向かう可能性はあるわけです。しかし、中国のやり方では、国内からの批判はもちろん、海外からも圧力をかけにくくなっています。つまり、改善の可能性すら見えないと思います。
東ベルリン反ソ連民衆蜂起 1953年6月
ハンガリー反ソ連民衆蜂起 1956年10月
ポーランド・ポズナニ反ソ連暴動 1956年
プラハの春 反ソ民主化運動 1968年10月
ポーランド自主管理労組のゼネスト 1980年
ソビエト共産党崩壊 1990年
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チベット民衆による反中共「ラサ蜂起」2008年3月
★このチベット蜂起が、かつてソ連共産党支配を崩壊させた
東欧諸国の蜂起の歴史と同じく、中国共産党支配を解体させる
きっかけとなれば、僧侶たちの死も無駄ではなくなるのだが・・
ほしいまま正義を振りまわす人々を見かけると、すぐうさんくさいと感じてしまいます。
自分が政治的に「正義」を振りまわしてさんざん後悔する羽目になったこともあります。
(遠慮なく自己表現をするブロガー、小生から見れば年若い人たち、オッサンの眼で見ていると危なっかしい感じがします。)
それを言ったうえで、
もし「正義」を求めることを忘れたら、人間、まして表現者は、確実に堕落すると信じています。
ブログ、荒れてますね。お気を強くお持ちくださるよう祈ります。
人それぞれに正義の定義があるでしょうが、それが公衆の面前で誰もが、事件の少なくとも全容を検証できる条件の中で行なわなければならないと思いますね。 残念ながら、中共の関わった過去の色々な問題では、全く説明責任を果たしていません。
中共もその洗脳された中国人も含めて、彼等の議論のパターンは「我々が正しい、責任は相手にあり、それを裏付ける事実も証拠もある」(根拠も証拠も示せないデマ)、とか「貴方の情報は全て間違いで死者は全くない」(真実の隠蔽)、「あなた方も同じような事を自国内でやっている」(問題のすり替え)、「現地へのアクセスはできない」(情報統制)などと説明責任を全うしていませんし、その意思もありません。
イラク戦争でも必ずしも100%ではないにせよ、例えば昨夜BBCでリポートをやっていたのですが、イラク生まれで、かつ育ったBBC記者が作成したものです。9/11でも、本当は米国政府の謀略であったと主張する民間人が映画を作成し、公開出来る。ところが、中共で、1949年建国以来そのような事例があるでしょうか。
1950年のチベット侵略、大躍進4000万餓死、1959年のチベット抵抗、中越戦争、文化大革命、第一、第二天安門事件その他すべて秘密裏に進められ、その真実は今も隠蔽されたままです。
これらの事案が我々がやって来たと同じなら、中途半端に隠し立てせず、全てを公衆の面前に出すべきでしょう。
福島さんこんにちは。
>そうなると記者としての私の正義はなにか、と今すごくゆらいでしまう。
今日本屋でそのことをとても考えさせられる本、「Escape from Saddam」という本を偶然立ち読みしました。
http://www.amazon.com/Escape-Saddam-Incredible-Journey-Freedom/dp/0307394018
この本は9/11 映画United 93でハイジャッカーの一人を演じた、「スンニー派」で元兵隊であったイラク人俳優さんが出版された本です。パパブッシュのイラク戦争時は子供でした。青年になりイラクを脱出しレバノンへ。後に色々あり違法行為を犯します。最終的にたどり着いた英国で裁判を受け,その後俳優になりました。)
彼は、本の中でフセイイン政権下の日常化した暴力に触れています。「この国を脱出し自由になったお前が、いつか私たち家族をすくいだしてくれる」と家族は彼を送り出したのだそうです。
そして、あとがきで、「正義とは何か」と問いかけをしています。
「米英は『イラクへの違法行為を正義という』、『同じ基準の正義で私の過去の違法行為を裁き』わたしは罰を受けた。
映画の撮影では可能であった米への入国が、過去の行為により、映画のプレミアでは不可となった。そして、英国では市民権がとれない。それも同じ彼等の『正義』だ。・・・私が違法行為をして家族を脱出させたのも『正義』・・・」。読んでいるとこちらまで「正義」ってなに?と混乱してきます。
イラク戦争は間違いだった。これは既にフセイン政権が無いから言えること。
言論が自由になった、イラクではなおさらのこと。
これからは、あめりかのせいではなく、自分達の問題であろう。
アメリカ軍の撤退を望むなら、治安を回復する方が先。
それまでは、アメリカ軍を増派するべき、小出しは悪化するもと。
将来の歴史家はブッシュ大統領を評価するであろう。
To tenyoufoodさん
>To alison-001さん
>>福島さんこんにちは。
>
>福島さんは今忙しいから代わりに返事していいですか?
あなた、やり過ぎですよ。
福島 香織 様
民族の問題に関することで自分には何も書けなかったのですが、今回の記事は少々心にひっかかったので、本旨とはズレているかもしれませんが、コメントさせていただきます。残念ながら、自分自身にとって現在の日本に対する“愛国心”はとても希薄です。その点では、あのプライドの高い人達の「自分たちの国」が行っていることを、海の向こうから非難することは許されないことかもしれません。そして日本の人たちにこれほど支持されている福島さんであっても、その国の権力者達の前では、限りなく“無力”なのかもしれません。
確かにその人間の物差しによって、正義の解釈は違うかも知れませんが、多くの日本人の感覚で、中国共産党の行っていることは許される行為ではありません。ニュース記事の中では、最大公約数の“公平な立場”でなければならないとしても、ブログの中では、日本人ジャーナリストとしての主張を貫いていいのではないですか?
あの89年の天安門(第二次)の時に、自分はアメリカで農業研修を受けていました。「China Crisis」として連日メディアに取り上げられていたその事件について農場主からコメントを求められた自分は「あれだけの国民を一つの政府がまとめようとするなら、こうするしかなかったのだと思う。」と答えたのをはっきり憶えています。多くの人の命が犠牲となったのに、その重さを考えないような発言をした自分を今でも恥ずかしいと思っています。…それから間もなく20年。経済的には当時とは比較にならないほど急成長したとは言え、共産党の姿勢は今も胡耀邦が追放された時と何ら変わっていない。
自分には“愛国心”は足りないかもしれません。けれども日本人であることは誇りに思っています。福島さんのようにメディアの最前線におられると、自分たち一般人からは想像もつかないほど、多くの情報や人の感情が集まってくるのだとは思います。ご自分の本意とは異なる立場に立たねばならない時もあるかもしれませんが、自分の感覚だけは信じてください。私は断じてそれは間違っていないと思います。
すごいねUSA。こういう言論習慣、インターネットと言う装置、こういうものを作ったのはあらかたやつらなわけです。いまニューズウィーク日本版などは空気を読んで「ここがへんだよ日本人」みたいなアプローチはやめて「ここがすごいよ日本人」みたいな記事を書くわけです。日本を外圧が変えていた時代からナショナリズムが微妙な意味を持ち始める時代の変化を読ん
でいる。あの国
の連中はスタンダードを常に目指してきた。グローバリゼーションと多様化のせめぎ合いを常に経験してきたわけです。今回も問題になっている戦争ですが、ここからいっぱい学ぶべきことがあるわけです。たとえば、日本の知識人達は「戦争」といえば「反対」という条件反射を子供がするようにしてきた。歴史から学んだのだと彼らは言う。でもはたから見ていると新興宗教みたいに見えるわけです。映画「時計じかけのオレンジ」なわけです。チベット人たちの苦悩は日本人のそれと通低するものがあるわけです。これは特殊なメンタリティーで、普通の国民国家にはないものです。私はニューズウィーク誌やワシントン・ポスト誌の回し者ではない。タイム誌もフォーリン・アフェアーズ誌も近所になく、しょうがないのであれを読んでる。日本人にスタンダードになろうというこころざしがどの程度あるでしょうか。輸出しているソフトパワーは漫画アニメとゲームすしなわけです。平和でいいじゃないかと言う意見もあるでしょう。でもこれだけでは、他人に向かって暴力を止めろとか殺人を止めろとか言っても通じない。USAも始終暴力ばかり振るっていますが、ユーゴスラビアでは結局やつらしかあてにならなかった。あれも内側から異論が出て、ハードパワーばかりではなくソフトパワーもあわせてスマートパワーを将来的には発揮すべきだという提言がでた。ところが六カ国協議のかねあいで中国にはいま口をモグモグさせている。歴史問題を抱えている日本ではだめです。たきつけないと。
To tenyoufoodさん
解説をどうもありがとうございます。
>言い換えれば、「誰にとっても同じ正義」は、・・・「ない物ねだり」なので、
これは分かるような気がしますが、
>
>「私にとっての正義」、
からの最後には?なところがあります。なぜこの補足がでてきたの? とか。
それぞれの正義を個々が持つのは分かりますが、
>を主張するのが「アイデンテイテイー;自己確立」のある、成熟した人格となって、安定した精神の持ち主になり、例え貧しくても誇りある人格者になりえる。
>
「主張」よりも、その「主張を通すために選択する手段を選択していく過程」の方が、そいうものの決定に大きく影響しているのではないかと思います。
(福島記者どうもすみません)
To tenyoufoodさん
せっかく説明していただいているのですが、最初の、
>「私にとっての正義」、
以下の補足の存在がやはりよくわかりません。
そして、さらなる補足がより混乱を招いていて分かりません。
とりあえず。ありがとうございました。
To tenyoufoodさん
>君はそのような「おためごかし」の言い方でしか、他人をけなす人間だということが、解った。
「わからない」ことを許せないのですか?どのように表現したら良いのか分かりませんが、わたしには、
>「唯一の正義」とは、
言い換えれば、「誰にとっても同じ正義」は、「十人十色」というように、「ない物ねだり」なので、
とそれ以下は別物で、「なので」という接続詞でつながらない。ということです。「理解していない。わかっていない」とわたしのことを判断されるならそれでかまいません。
>君はそのような「おためごかし」の言い方でしか、他人をけなす人間だということが、解った。
という正義を主張することによって「・・・誇りある人格者になりえる。」を個人で追求してみてください。