■被災地取材で、取材対象を選ぶとき、ものを食っているひとを捜す。別にご飯を分けてもらおうという魂胆があるのではなく、この被災の過酷の状況下でものを食える人は生きるパワーをもっている人だからだ。ものが食べられないほど、心理的ショックを受けている人を取材して、うっかり傷つけたりして、PTSD(心的外傷後ストレス障害)がひどくなったりしたら大ごとだろう。特に子供を取材するときは、ぱくぱく元気よくものを食べている子を選ぶのだ。
■そうやって被災地のもの食う人々を取材していると、気づいたことがある。中国の被災者は本当に元気にうまそうにごはんを食べているのだ。さすが挨拶が「ごはんたべた?(チーファンラマ?)」というような、「民以食為天」の国だ。
■そして、必ずいくらこちらがことわっても、食べろ食べろといって、はなしてくれない。本当に、断り続けると、「きたなくないよ」と不機嫌そうになるものだから、結局いただいてしまう。そして、つくづく、この人らは強い、生命力が段違いだ、と思うのだ。被災者からメシをめぐんでもらうけしからん記者と思われるかもしれないが、一緒にご飯を食べて初めてわかることもいっぱいある。こちらも、次に訪れるときは新鮮な果物とかを差し入れるようにはしているし、許してもらおう。
■というわけで、被災地のもの食う人々を写真で紹介したい。
↑綿陽市の九洲体育館の炊き出し。ご飯の上に、豆腐と肉と青椒の甘辛いためがかかっている。彼女は北川県雷鼓鎮から避難。「味は相当いい、でも肉が三切れしかはいっていないのよね。まあ人数がおおいからしかたないか」といっていた。昼と夕に炊きだしは行われ、被災者は器を持って並んでいる。1日3食のうち、2回がインスタントラーメンと牛乳(食い合わせわるそう!)。一時2万8000人がくらしていた九洲体育館は、31日には7000人にまで減っており、食生活は比較的充実している。
↑カメラをむけても、いやがらずに取材に応じてくれる被災者のひとびと。避難所生活は「満足している」といっていた。人の暮らしの強烈な匂いが充満し、プライバシーゼロの雑魚寝の避難所生活にも、へこたれずに、おいしそうにもの食う被災者。根本的に(阪神大震災時の日本人被災者と)生きる強さが段違いだと思った。今回の被災者はほとんどが、鎮(農村部)出身の人。阪神大震災は都市型震災だったから、その違いもあるかもしれない。
■同じ日、綿陽市の九洲体育館の敷地内のテント村では、北川県から避難してきたチャン族の家族が、たらい一杯のベーコンに舌鼓をうっていたのをみかけた。
■
■ほら、震災後はじめてのまともな肉よ。あんたも食べなさい!と箸で私の口元に肉をもってゆく被災者。当然、この肉を食べた。うまかった。
■
■この家族は12人の大家族。サオサオ(兄嫁)が生き埋めになって亡くなった。家はつぶれ、写真の彼女が経営するお店(個体戸)もつぶれ、そのあと商品がぜんぶ火事場泥棒にもっていかれて一文無しだ。しかし、彼女の母親がふと思い出したのだ。壊れた家には確か、去年暮れに作ったベーコン(四川ラーロウ)があるはず!母親はひとり、被災地にもどり、瓦礫の中からそのベーコンを探し出して、家族のために持って帰った。それが、このたらい一杯のベーコンだった。「お母さんはすごい!」と家族全員が大喜びでその肉をもりもり食べる様子を、お母さんは少し離れたところの椅子に座ってうれしそうに眺めていた。食に執着する人のたくましさ、そして母親の家族を思う愛と強さを、感じたエピソードだった。
■山間部・震源地の映秀鎮(28日)では、支援が遅れがちだときいていたのに、避難テント村の近くのやまもりのベーコンにびっくりした。
↑ベーコン(四川ラーロウ)ってこんなふうにして作るんだ。下には薪の燃えかすがかすかににおっていた。できあがったベーコンはテント近くのテーブルに山積みになっていた。
↓ベーコンになる前のブタさん。この後の屠殺の一部始終をみて食べたベーコンの味は、なんともいえなかった。
いや~殺さないで~と悲鳴をあげるブタ。このあと首を切って、血をだし、あっという間に解体してゆく。軍の人はもともと農村の子弟だから、ブタの処理もおてのもの。みょうに活気があるブタの殺戮は、私には震災で破壊された人々の暮らしの再生にむけた生贄のようにも感じた。おいしく食べて被災者の明日を生きる力となるのだから、成仏してくれ!
■映秀鎮は中心部は発電所とかコンクリート工場への通勤族(上班族)が暮らすが周辺の村は基本的に農村で、農業を営みながら各家庭で2、3頭のブタを飼っている。ところが地震で豚舎は壊滅。逃げたブタが野良ブタとなっている。野良ブタは、蚊を媒介に脳炎などの感染症のもとになるし、つかまえても、餌がないので(人間への救援物資ですらなかなか運び込めない山奥、どうしてブタの飼料まで手がまわろうか)、飢え死にする運命。だから、みんなで処理してくってしまおう、というわけだ。ベーコンづくりは普通一年に一度、年の暮れにする。農家の財産である大事なブタをこれだけ一気に処理せねばならないのは、農民にとっては辛いことではあるのだが。
■記者さんも、食べていきんしゃい(四川弁)と強引にいわれて、一緒にかこんだ食卓。もともと四川ラーロウ(ベーコン)は好物だし。白いご飯、じゃがいもにこみ、ベーコンと青椒のいためもの。おいしかった。この家庭は、おくさんがチャン族(蔡興碧さん)、だんなさんが漢族。
■このあと、食事のお礼に、彼らのために、失った財産目録というのを書いてあげた。
チャン族のおばさん(鄧貴英さん59歳)「あんた、字かける?」
私「まあ、一応」
おばさん「私の四川弁ききとれる?」
私「がんばれば、なんとか」
おばさん「じゃあ、この紙に私のいうこと書いて」
■そういっておばさんは、「レンガ木造構造の母屋70平方㍍、台所30平方㍍、豚舎30平方㍍、冷蔵庫一個、テレビ一個、固定電話1個、携帯電話1個」と自分たちが失った財産を数え上げた。私は、それを書き留める。「数字は大写(漢字)で書いてね」とか妙な注文もつけられた。書きながら、失ったと嘆く財産はこれだけか、やはり貧しいなあ、と思っていた。書き上がった目録をみて、おばさんは満足そうに笑った。
■ちなみに年収は3000~4000元くらいだという。被災者はみな平等に政府から1日あたり10元の補助金と1キン(500㌘)の食糧が震災後3カ月間、配給されるが、年収とくらべると、むしろ震災補助の方がよかったりする。
私「家族は大丈夫だった?」
おばさん「うちは大家族でね、2人の息子、2人の嫁、そして孫たち全部で10人、ひとりも欠けなかったよ。でも長男の嫁は右足と右腕をなくしたけれどね」
■嫁がそんなおおケガしたなら、普通はけしって大丈夫とはいえないのだろうけれど、このくらい悲惨な震災だと、おもわず、「それは幸運でしたね」と相づちをうってしまう。
鄧おばさんの旦那さん(漢族)の馬道和さん(62)と五輪についてどう思う?という話をすると、「五輪があるから、世界が私たち被災者に関心をもってくれる。あなたがたがこんなところまで取材にきてくれる」と言っていた。五輪については、被災者と話しをするたびに尋ねたが、こんな大変なときに五輪みたいなお祭り騒ぎ、けしからん、という人は意外に少なくて、「震災と関係ない」という人と、「五輪があるから、被災者がいっそう注目される」と肯定的にみる意見と2通りにわかれていた。
■映秀鎮の避難テント村で、麺をうつおばあさん。被災しても日常がある。生き残った人は、せめておいしいものでも食べて生き抜かねばならない。↓
■省都・成都に近い被災地・都江堰の避難テント村の食はどうだろう?
この避難テント村は、政府の炊き出しではなく、コンロを提供して被災者が自分たちでこはんを作っていた。政府は被災者の補助を金だけでなく、500㌘の食糧という現物支給で行っているが、これは被災中でもご飯を自分でつくりたい、食にうるさい中国人の要求に合致しているわけだ。震災から20日くらいで、ここまで生活のリズムを取り戻す中国の被災者は実にタフである。(写真は6月1日の昼前)
■コンロは共有なので沢山料理がつくれない。それで複数の家族がおかずをもちよって一緒にたべていた。(5月30日)。そのときであった家族らを写真にとろうとしたら、主婦で会社員の雷さん(36)に「取材するより食べなさい!」と食事に巻き込まれ、一緒に食べることに。(でも写真撮影は拒否された。)6、7品(回鍋肉、青椒甘辛いため、ベーコンと野菜いため、ジャガイモ煮込み、ウサギ肉四川風味、豚肉の唐辛子いため、カモの水かき、鶏の爪…など)の料理がならぶ豪華な食卓だった。
■とくに、ウサギ肉の四川風味やカモの水かき、鶏の爪は珍味で貴重なものだった。これは成都からくる知人、親戚の差し入れだそうだ。冷蔵庫のような便利なものがないので、ごちそうを差しいれられたら、けちらず、ご近所みんなでその日のうちに平らげる。都江堰も、観光都市だけれど、あるいみ田舎なので、こういう昔の日本にもあった気前のよさやご近所づきあいが、しっかり根付いていた。
■ここでみんな、おおいに食い、震災のことを話し、生きていることを喜びあっていた。笑い声もあがった。「家族は無事だったけれど、家はたおれて、勤め先もつぶれている。だからこそ、ちょっとくらいおいしいもの食べたっていいじゃない?私たちは、困難な生活とこれからも向き合っていかなくちゃならないのよ。さ、たべよう!」。雷さんはそんな風にいって、ウサギ肉にかぶりついていた。
↑被災地でも、食事時は楽しそう。(6月1日)
■都江堰の仮設住宅のごはんは、食堂がつくる給食だった。私が取材した当時(5月24日)は、給食は無料だが、市の方針としては、いずれは食費を徴収するそうだ。家族水入らずで仮設住宅におちついたのがうれしいのか、お母さんはちょっと涙ぐんだ笑顔だった。この日のおかずは3品。四川風味の肉入りやさいいため。野菜のあえもの。卵と野菜の炒め物とごはん。女の子の名前は申光亜ちゃん(10)「ごはんおいしいよ!」と笑顔をみせてくれた。↓
■都江堰市のような成都が近い地域の食生活は充実していたが、僻地は食糧が十分行き渡っていないところもあるようだ。北川県から避難してきたのチャン族の避難所(安県)の食事は貧しかった。
■配給は薄おかゆだけ。大勢がならんで、最後の方の人は足りなくなることもあった。中年の男のひとが洗面器に一杯おかゆをいれようとして、漢族の係員から子供のように怒られる場面も。チャン族の少年(16)が、「僕らチャン族はきっと支援を後回しにされている。漢族の方が被災者が多いのだから仕方ないけれど」と言っていた。一部の被災者の中には不公平感があるようだ。彼の家は危険な堰き止め湖のある唐家山の付近の山の斜面にある村で、地震で全滅、そのあと堰き止め湖に沈んでしまった。彼のおばあさんは「故郷にはもうかえれない」とうなだれていた。
■ただし、ここの管理をしている程波氏(綿陽市人民検察院幹部、漢族)は「ここのテント村の条件はけっしていいいとはいえないが、肉も野菜もそのうち来る。われわれはチャン族のために奉仕している」と主張していた。外国が支援できることは?と尋ねると「CNNみたいな偏見報道をしないこと。中国をよく理解し、公平に対応してくれることが一番の助けだ」と言っていた。ちなみに彼の奥さんはチベット族で「外国のチベット問題に関する報道はウソだといっている」そうだ。しかし、ここで、CNN問題を引き合いに出してくるとはね。
■広元市青川には行っていないが、あのあたりも物資が不足し、避難所に肉が届いていない、と同僚から聞いた。(今はもう少し条件がよくなっているかもしれないが。)食の問題は地域差がずいぶんあったろうと思われる。
■5月18日、北京から成都にとび、都江堰の被災地入りしたとき初めてたべた被災地の食べ物は、被災者の袁芬さんから分けてもらったひとかけらのビスケットだった。このとき私はお礼に彼女の息子(10歳)に、北京からもってきた日本のお菓子(雲竜という関西の竿菓子、母親がときどき日本からこういう嗜好品を送ってくれる。私は主に中国人の友人や取材先へのおみやげにする)をあげた。彼はそれを母親の袁さんに渡すと、袁さんは「あとでおばあちゃんと食べようね」といって、だいじそうにテントの中にしいている布団の下にしまった。その夜、彼女のテントで一晩過ごし、翌朝、2人で食べた朝ご飯は、配給のインスタントラーメンだった。お湯もなかったので、ばりばり生でかじった。
■ラーメンをかじりながら、袁さんはこういう。「インスタントラーメンを発明したのは、日本人だってね。日本人に感謝するわ」。けっしてうまくはない生のインスタントラーメンを、おいしそうにかじる彼女をみて、食べることって、そのまま生きることなんだ、とつくづく思った。
■被災地から帰ってきた今も、凄惨な被災跡地で懸命にもの食う人たちのことを考える。すると、私もダイエットなんてばかばかしくなって、しっかり食べよう。しっかり食べて明日のことを考えよう、という気分になってくる。
福島様 お疲れ様でした。
現地の力強い復活力を感じるレポートありがとうございます。
私は阪神淡路の時は枕もとのウイスキーのボトルを倒れないようとっさに押さえていたのを思い出しました。
あちこち奥地まで入られたようですが、日本からのWEBアクセスでは映秀鎮では地下での核爆発の影響と予想される情景の記事や、唐家堰の決壊危機の為に無人になった綿陽市内や游仙区の写真が散見されています。
そのような危機感、緊迫感は現地ではいかがでしたか?
日本にいると真実っぽい噂記事と、中国政府発表の公式情報しか見えません。 このような素肌で感じられた情報を 引き続き発信お願いします。ありがとうございました。
福島記者お疲れ様でした。
現地の食べる姿 素晴らしい・・復興はそんな姿がエネルギーになり
頑張れるでしょう。
今回 明るい中国人拝見出来嬉しかったです。ありがとうございます。
また食べろ・食べろの言葉 温かい中国の人情味が伝わり未来が
見えて来ます。
はじめまして、2007年の11月ごろからこのブログを覗いて、中国の桂林に住んでいる中国人です。
地震で中国のいい面も見れるようになったことがうれしいですが、
福島さんの読者のなかにこういう記事あんまり面白くないと思ってる人はたくさんいるのではないですか?大丈夫ですか?
わたしは中国人としてこのような良識のある記事に歓迎しますけどね。
(IDのchinaeseはchineseの間違え…)
×記事に
○記事を
To chinaese2008さん
人道主義、というその一点において、私の記事を書く姿勢は、3・14に対しても5・12に対しても、なんら変わりありません。大地震発生当初、中国はJビザをもたない記者も、災害現場にいれて取材を黙認しました。3・14事件のとき、外国メディアの現場取材を同じように容認すれば、きっと国際社会の中国に対する評価は大きく違ったと思います。
老百姓の息づかいが伝わる、いい記事ですね。
私も、中国の農村で、つぶしたばかりのヒツジやニワトリをごちそうしてもらったことがありますが、新鮮な肉はおいしいんですよね。ナンマイダと唱えて、ありがたくいただきました。それにしても、中国人の家畜を屠る手付きの鮮やかなこと。中国人の生きていく力というか、たくましさは、我々日本人にはない部分かもしれませんね(まあ、たくましさが悪い方向に向かうことも多々ありますが)。
ところで、シャロン・ストーンのカルマ発言を受けて、ディオール不買運動が始まっているとかいないとか。不買運動はいいけど、秀水や襄陽以外でディオールを買う人がどれだけいるんだか。
福島記者、お久しぶりです。
「食べることは元気の基」という発信、確かに受け取りました。
阪神淡路大震災のときも、やはりそれはありましたよ。ひどい被災であった須磨や長田の人たちは、共同で炊き出ししたそうです。
わたしは淡路を目の前に見るところですが、わが家はプロパンだったので火はOK、しかし都市ガスの家はダメ! 水道はずたずたでしたので、皆さん漁港に行って水をもらってくるのが日課でした。
で、近所で集まって、我が家のプロパンで料理! そのおいしかったこと!
久しぶりに、元気な息づかいを聞きました。
北京にお帰りになって体調をくずされませんように、ご自愛ください。
福島様、お疲れ様です。やっと北京コネタブログらしい、というか四川コネタブログになってきましたね。一つ釜のめしを食べるというのは友好の基本であり真髄かも知れませんね。接待されてしまうとあとが怖いですが、きたなくないよ、と言われるような「ごはん」は安全だと思います。やっと食糧やらなにやらが行き渡ってきたようで何よりです。
比べて、ミャンマーの窮状は目を覆いたくなるようなものがありますね。軍政をデスノートに書いて転覆させたい気になります。
福島記者
チャン族避難所の食事風景は産經新聞の記事でも拝見したわけですが、その時は「酷すぎる?、救援隊は何しとんねん! やはり少数民族は放置かいっ!」との印象を受けました…でも、このエントリーの写真見てなんか安堵しましたよ。 給養さえ充足すればあとは各個の才覚でがんがん動いて行く…被災者の笑顔に逞しさを感じました。
> …みょうに活気があるブタの殺戮は、私には震災で破壊された人々の暮らしの再生にむけた生贄…
天に捧げられたぶ?ちゃんに黙祷。 こういう人間本来の姿は忘れちゃいかんのでしょうね…幸いにして平穏に生活出来る私も、せめて日々の糧を有り難く頂戴出来る事を天に感謝せねば…
> 雲竜という関西の竿菓子…
俵屋吉富さんのですな…配給食が乾きもの主体のところで飲料水不足は辛いなぁ…僻地避難所の水供給事情ってどうだったんですかね?
福島さんの面目躍如。ヒューマニズムってこうした飲み食いの話まで包容できるようでないと、直ぐにひからびてしまいますものね。
あさって、留学を終えて震災後の四川に帰るという若い友人の送別会をする予定です。みんなで美味しいものを食べて彼女を励まそうと思っています。
To 福島香織さん
> ラーメンをかじりながら、袁さんはこういう。「インスタントラーメンを発明したのは、日本人だってね。日本人に感謝するわ」。
つい数時間前に知ったのですが・・・・・
発明者の安藤百福さんは台湾出身だそうです。
「台湾出身(旧名:呉百福)。のち日本に帰化・・・・1910年、台湾・嘉義市付近の樸仔脚(現・朴子市)に生を享ける。両親を幼少期に亡くし、繊維問屋を経営する祖父母のもと、台南市で育った。・・・戦後、台湾出身者は日本国もしくは中華民国の国籍選択が必要となったが、その際安藤は台湾(中華民国)を選んだ(のちに日本帰化)。」by Wikipedia
それと、
中国の少数民族は制度的には、一人っ子政策の適応がない(はず)など、優遇される部分があって、「最近は大きな差別がないから、両親の片方が少数民族・片方が漢族の場合、民族名を少数民族の方で登録することが多い」と聞きました(地域や、大都市と町と田舎の違いもあるでしょうが)。また、都市や漢民族の多い町で生まれ育つと、民族文化の根幹が揺らぐこともあるでしょうから、チベット族といっても立場や地域によって、見方や判断する部分はいろいろでしょうね。
もう一つ。
マンガの「じゃりんこチエ」のなかで、ちょっと困った状況になった寒い夜にオバアがチエに、「こんな時は、まず、何かあったかいものを腹に入れることが大事や。寒くて、ひもじい時は、碌な考えは浮かばん」とか言って、屋台でラーメンを・・・・
という場面を思い出しました。 これって、大事なことなんですね。
ごはんを美味く食えてる、っていうのは少なくとも精神的にまいってないってことで、良いことだ。
話はかわるが、北京五輪の会場で、オーロラビジョンに「四川の被災地からも五輪の応援をしています!五輪ジャーヨウ!四川ジャーヨウ!」とか、やりそう。(画面に映るのは、当然『笑顔の人々』)
この大地震のせいで、人生が暗転し、廃人同様になった人もいれば、なぜか「焼け太り」して以前の生活よりかえって恵まれた環境になった人もいるかもしれない。
辺見庸氏の「もの食う人びと」を思い出しました。
氏の思想信条には同意出来ない部分多々ながら、その文才や「もの食う人びと」との着眼点はたいしたもの。
福島さんの「もの食う人々の強さ」のリアリティも素晴らしいですね♪
サイン入り著書の連絡をし損なって落胆し、以来コメントを書けずにおりました m(_ _)m
しかしもちろん、エントリはすべて拝見しております。
もの食う人々の強さに力付けられて、復活かも♪
pakaさまに補足。
おばあの名言。「ひもじい。寒い。もう死にたい。不幸はこの順番でやって来ますのや」。
私にとっても座右の銘です。東西を問わず、何の災害であっても被災者の方々は本能的にこのことを分かっているような気がします。もっとも、口に入るものがあること自体幸せだと思わなければいけないという、厳しい現実もありますね。
中央政府の復興への支援は言わずもがなですが、被災者の皆さんの表情を見て、彼ら彼女らのパワーは中央の支援を上回ると感じました。
幸いにも犠牲者が出なかった家族、一家揃っての食事は、きっと被災の中での至福のひと時なんじゃないでしょうか。また、不幸にも犠牲者が出てしまった家族も、ご近所との助け合いで少しでも心の痛みが和らぐといいですよね。
香港でも募金活動が盛んですが、届けるべきものは「食」なんだろうな、とも感じましたよ。
福島様
現代日本から見ると通常の状態でも大変な地域で、しかも震災後の取材活動!
お疲れさまでした。
記事を読んで<<全部で10人、ひとりも欠けなかったよ。でも長男の嫁は右足と右腕をなくしたけれどね>>人間の強さを感じると同時に日頃から我々の想像を超えた厳しい生活環境を生き抜いているのが分かります。
<<われわれはチャン族のために奉仕している>>この言葉には漢族の傲慢さと人種差別がはっきり出てる。
豚のベーコンを探し出してきたお母さんの話を聞いて、
私は神戸の地震よりもっと昔、昭和20年3月13~14日未明大阪大空襲で
家を焼かれアチコチ逃げ回り大阪中心部が殆ど全部焼失し終わって、
家族全員無事に道頓堀川畔の安井道頓・道ボクの記念碑の前に座り込んだ時に、母親が何時の間に仕込んだのか握り飯と水筒を出してきて皆で食べました。
住む世界が違っても「母は強し!」と思い出しました。
今の日本の母親達には無理でしょうねぇ。
To watajunさん
>pakaさまに補足。
>おばあの名言。「ひもじい。寒い。もう死にたい。不幸はこの順番でやって来ますのや」。
ありがとうございました。
福島香織様、皆様
四川省の被災者が被害にもめげずたくましく生きて、たくましく食べているのを見てほっとしました。私も四川省、それも山の中まで行った事がありますが、「これはこの村でしか食べられません。隣の村にはもうありません」というものがあってさすが中国人は食べるのに熱心な民族だと思いました。
Chinese2008様
この福島さんのブログを中国に住む中国人の人がアクセスできるのですか。産経に関係のあるブログにはゴールデンシールド(金盾)がかかっているのとばかり思っていました。
中国に好意的な記事を書くことが”良識的”だとは思いません。本当の友達というのはしばしばあなたの欠点や間違いを指摘してくれる人です。
被災地から戻ってダイエットが必要だった記者とは福島さんの事だったんですね。(笑)
お疲れさまでした。ホッとして、気を抜いたときに病気になったりするものです、ご自愛を。
でも田舎の人は何処であろうとたくましいですね。日本でも都会育ちで、台所はコンビニにアウトソースしてしまっている人たちだったら、こんな時、自炊出来なくて大変でしょう。
四川大地震の場合、都市部の被災者もこれほどのバイタリティーがあるのでしょうか?
こんばんは?(^^)
まずは、「おいしそう」とか思っている自分がいます。そして、しっかりとみなさんが食べていられると聞き、わずかながら安堵しています。
ですが、長いテント生活が始まったばかりとも思います。ボーイスカウトをやっていた頃、キャンプから家に帰っていかに家や布団というものが、電気ガス水道が有り難いものかつくづく思ったことを思い出しました。
引き続き、記事を楽しみにしています。
前回に引き続き、いいお話をありがとうございます。
読み応えのある話でした。
大災害の後でモリモリと食べている被災者の皆様に、
「食べていけ」と言われてご相伴に預かる福島さん、
(大変失礼ですけれども、私だったら喉を通らないかも・・・)
家財目録を作ってあげている福島さん、とても素敵です。
「日本人が作ってくれたインスタントラーメン」の話、ホロリとします。
阪神大震災のご経験のある福島さんが、
その経験と、日本人としての特性を十二分に生かして
今回取材に当たっているということは天の配剤ですね。
(もちろん、とても大変だろうと思いますが)
今回の四川大地震が、また、
阪神大震災を、阪神大震災を経た日本を見直す機会にもなるのですね。
ところで文中に出てくる「四川風味の~」とは辛いのでしょうか!?
tenyoufoodさん
もういい加減に空気を読んでください。
あなたのコメントで皆さんが引いてしまっているのに気付きませんか?
どうしてもうんちくを述べたければご自身でブログを開設されたらいかがですか?
「人々の強さ」を私は、Randy Pauch’s Last Lectureの一文“We cannot change the cards we are dealt, just how we play the hand.”より、色んな意味で限界を知ってる人だからこそ、生きて、今を楽しめてるってことなんだ、と理解しました。ところで、Dr.Pauschのレクチャーは中国語では、サブタイトルまでついてるのに、日本語にはなってないんですね。イデオロギーや政治体制を越えて中国人は理解してる(ように見える)のに、勤勉な日本人には受け入れ難いアイデアなんでしょうか。
もうひとつの食糧関連稿「ブタ79万頭が死亡」については、どこかが追加の死亡記事を載せてましたからトータル300万以上の大量死、ポーク市場高騰の原因解明にひと役買うことは間違いなさそうです。でも、穀物不足と合わせて、問題が現実化するには、もう少々時間が必要なのかもしれません。
始めまして、京都大学医学研究科博士課程在籍中の中国留学生、趙と申します。
中国・ミャンマー遺児支援募金実行委員会の方の紹介で、福島さんのblogを拝観させていただいております。
四川省被災地の方々の前向き姿を伝えて来ました。感激で涙溢れます。
感動を与えられる文章、ありがたいです。
応援という気持ちと敬意を伝えたいと思っております。
今回の地震で人間と人間の繋がりとか、どう生きていくべきか、いろいろ考えさせられました。京都の街で宣伝や祝福サインなどの活動も行いましたから、愛、国境を越えるという言葉深く理解できました。日中の間にはいろいろありましたが、決して両国に偏見を持ち方は僅かの一部分だと思います。中国現地にいて、いろいろな不全のところみていても、暖かい気持ちで、現状を伝えて意頂いて、福島さんに敬意を持ちまして、応援する気持ちいっぱいです。
中国の一員として、感謝しております。
応援いたします。
わたくしも日本に5年になりますが、ついこの間から日中友好に何か貢献できたらいいと考え始めました、自分自身のblogに本当の日本と日本人民を中国人に伝えようとしています。
http://lankyoto.blog.sohu.com/、中国語ですが。
お互いに頑張りましょうね。
応援します。