チベットのあした②

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■海抜3600㍍のラサの空港で、飛行機のタラップを降りたとたん、金魚の気持ちがわかった。酸欠の水槽で、あっぷあっぷしている、あの金魚である。一応、大学ではちょこっとワンダーフォーゲルもやったし、ペルーのクスコからマチュピチュまでのトレッキングで標高4700㍍くらいまでは経験ずみだったのだが、飛行機でいきなりこの高度は効いた。息苦しさと動悸をごまかしつつ、バスにのりこんで、そびえる山や湿地帯の風景を車窓に追いながら、ラサ市街に向かう。ひたすら続く自然の眺めはすばらしいけれど、ああ、くるしっ。人間の住むところじゃない。とおもったところへ、山の岩肌に彫られた極彩色の仏像が窓の向こうから目に飛び込んできた。仏様、この苦しいの治してください。思わず心の中でうめく。チベット族でなくとも、こういう厳しい環境にいれば、信仰も深くなりそう…。それが、チベットを訪れたとき、最初に感じたことだった。

■坊さんウソ付けない!
サキャ寺での一件
今でも崇拝されるダライ・ラマ14世

■信仰が生まれるのは、信仰が必要とされるからだ。チベットにきて直感したことは、この土地では信仰無しに活きてゆけない。そして、ダライ・ラマとは、その信仰の象徴であり、誰が否定しようと、否定しきれるものではないのだろう。たとえば、聖母マリアは娼婦だった、といった学説がでようと、誰もマリア様への崇拝をやめることはできないように。こういう当たり前のことを肌で感じることができたのが、このツアーで一番の収穫だったかもしれない。

■その中でクライマックスというか、もっとも印象にのこった出来事、といえば、ツアー四日目のサキャ寺の記者会見だ。この話からはじめよう。

■ラサから車で南に3時間半の移動で、チベット第2の都市シガツェに到着する。ラサがチベット仏教最高指導者がダライ・ラマの本拠地なら、シガツェはそれにつぐ指導者、パンチェン・ラマの治める地である。そのシガツェから南西に150キロ、海抜5000㍍の峠をこえた4200㍍地点にサキャ寺がある。

■サキャ寺は1073年建立、13~14世紀に最盛期を迎えたが、その後も文化、歴史、学問の中心として栄え、史上7000人以上の聖人を輩出、チベット文化のゆりかご、と呼ばれている寺だそうだ。しかし、チベット動乱後、サキャの法主、サキャ・リンポチェは亡命、1300人いた僧のほとんどが亡命、あるいは還俗させられた。特に文化大革命時の破壊活動はすさまじく、サキャ北寺はじめ、108あったという大殿など寺院建造物が跡形もなく消え、かつて廟の会った場所にはがれきがのこるだけ。ダメージを受けた南寺、仏塔など過去の栄光のなごりをとどめるのはほんの一部で、僧侶の数もわずか120人。ちなみ僧侶の数が少ないのは、僧侶のなり手がないのではなく、中央政府が、寺に対して僧侶の数に制限を加えているからだ。


勤行中のサキャ寺の若い僧たち。
サキャ南寺で行われている修復作業。昔ながらのやり方で労働歌を歌いながらアカ土を棒や足でたたき固める。

■その共産党によるチベット仏教弾圧の歴史の爪痕が今もなまなましく残るサキャ寺で、パルデン・ドニュ住職の記者会見がおこなわれた。外交部主催ツアーがなぜ、ここで記者会見を設定したか。それは、今、中央政府の支援でこの寺の大規模修復が進められているからだ。02年から5年間の修復計画に中央が投じる予算は8567万元、すでに6230万元が投入済みだという。記者会見は名刹サキャ寺修復プロジェクトを外国メディアを通じて、中国がかつての文革で文化財を破壊したことを大いに反省し、その修復にこんなに熱心に取り組んでいる、ということを国際社会に知らしめるための記者会見だった。当初の予定としては。

住職の会見風景

■住職の会見は中国語で行われ、はじめサキャ寺の歴史、寺の修復状況、文革時代の破壊状況など予定調和の質疑応答が行われていた。
ところが会見半ばをすぎたころ、ドイツのテレビ記者が質問をした。
「ダライ・ラマ14世に帰ってきてほしいですか?」
これは、外国メディアが必ず質問することで、おそらく外交部、チベット自治区政府外弁も予想内の範囲だったろう。しかし住職はこう答えたのだ。
「はい」。
この答に質問したドイツ記者の方が驚いた。
「もう一度聞かせてください」
「ダライ・ラマ14に出来るだけ早く帰ってきてほしいです」
記者団からどよめきが起こる。外交部新聞司の女性英語通訳が、ちょっと躊躇してそのまま英訳した。後方では外交部新聞司、チベット自治区政府外弁の〝お目付役〟が顔色を変えて、なにかひそひそ話していた。
こんどは別の記者(?)が聞く。
「ダライ・ラマ14世は宗教領袖だと思いますか」
住職「はい、そうです」
そこで、さすがにまずいと思ったのか、外交部新聞司側がいきなりマイクをとって、「ちょっと、補足します。ダライ・ラマ14世は宗教領袖であるまえに、政治屋であり祖国統一を阻む分裂主義者です。ダライ・ラマが政治活動を完全に停止し、分裂主義を放棄すれば、という前提ですよね」と牽制の発言。
住職「はい、そうそう」(ちょっと、あせって)

■記者会見は、記者と会見当事者の真剣勝負だ。途中で部外者がこういった牽制をかけるのはあんまりではないか。ちょっとむかついた私が今度は「住職はダライ・ラマ14世のことを本当に分裂主義者だと思っているのですか?」と質問。住職は、口をあけて、何かいいたそうな表情をしたあと、黙りこくってしまった。あまりに気の毒な様子から、この会見後に住職にふりかかるトラブルに思いいたって「答えたくないのであれば、答えなくていいです。それが答だと理解します。こまらせてすみません」と質問をひっこめた。

住職に修復現場を案内されながらぶら下がりで質問を続ける記者ら。

■会見後、記者らは住職にぶら下がって引き続き質問する。
記者「あとで面倒なことになると思いますか?」
住職「たぶん、私と私の周辺の人たちに面倒がふりかかるでしょう。でも、ウソをいうわけにはいかない。」

■チベット仏教には五戒(不殺生・不偸盗・不妄語・不邪婬・不飲酒)というのがあり、僧侶は「不妄語」、つまりウソをつけないのだ。もちろん戒律を守らない僧侶もたくさんいるのだが、さすが名刹サキャ寺の住職となると五戒に背けないらしい。そういえば、この住職、最初のサキャ寺説明の中で「中央政府が許す範囲内での自由な宗教活動、伝統を守っています」と、ちょっとひっかかる言い方をしていた。住職の心の中では、今のサキャが本当の宗教活動、伝統を守っている、とは思えないのだろう。わざわざ中央政府の許す範囲、と注釈をつけずにはいられないあたりからも、この住職がホント、ウソ付けない人であることがわかる。

■住職の安全を思えば、記者はこんな質問をすべきではなかったのだろうか。しかし、何度も繰り返すように、記者会見は真剣勝負。一番聞きたいこと、聞くべきことを聞く。そこでどう答えるか、答えないか、答だけでなくその答え方の中に真実を見いだすのが、私達の仕事であり、ここで妥協するわけにはいかない。ストレートな私たちの質問に、ストレートに答えてくれた住職の勇気に本当に感謝した。いちおう連絡先もいただいたので、住職の安全については今後も留意したい。

■ところで、外交部は住職の記者会見前に、こういった記者の質問を想定して、答え方を指示しなかったのだろうか。住職にぶら下がって聞いたところでは、会見については事前に何の打ち合わせもなかった。ただ、住職は文革で完全に破壊されたサキャ北寺の再建をチベット自治区当局に申請しており正式批准はまだ出ていないが、再建の確約を得ていた。これは私の想像だが、寺の修復や再建計画などで中央政府にそこまで依存しておいて、まさかまさか、寺の責任者が、中央政府の意向に背く発言をするとは思わなかった、ということではないだろうか。

■これはものすごく漢族的な政治学、社交術なのだが、本音の要求をいわず、「ね、わかっているでしょ」みたいな空気を滲ませつつ、別のもっともらしい理由で金や贈り物を渡す。(本音をいって金を渡せばワイロです、といっているようなもんで相手に恥をかかせるため)。で、それを、相手の本音に気づかないふりをして受け取った段階で、共犯の合意ができていると見なすのだ。ただ、これには、ウソつきは頭のいいことの証みたいな価値観がある漢族文化で成り立つあうんの呼吸が必要。この会見は、中国人が、信仰上ウソはつけないチベット文化を根本的に理解できなかったためのミステイクの結果かもしれない

■ちなみに、「ダライ・ラマ14世に帰ってきてほしいですか」という、外国記者がよくする質問には、当局と聖職者の双方がぎりぎり容認できる模範解答がある。それを答えたのは、ツアー2日に訪れたジョカン寺の僧侶でアワン・チュジャ管理委員会主任。彼の記者会見の答はこうだ。
記者「ダライ・ラマ14世は宗教領袖だと思いますか」
主任「ダライ・ラマは宗教領袖です」
記者「チベットに帰ってきてほしいですか?」
主任「ダライ・ラマが本当に政治活動をやめ、分裂主義を放棄し、純粋な宗教者として戻ってきてくれるなら、我々は受け入れてもいい。そのときは、ダライ・ラマを歓迎するだろう」

■これがなぜ模範解答かと思ったかというと、英語通訳の外交部新聞司員が満足そうに頷いて、「対(ドゥイ、そのとおり)」とつぶやいたからだ。
チベット仏教僧侶にとって、活仏最高位のダライ・ラマが宗教領袖であることは、これは絶対であり、帰って来てほしいのも当然。この部分は、いくら中央の命令でもウソはつけない。だから、中央政府もそこの部分はちょっと妥協するけれど、ダライ・ラマ14世に政治屋で分裂主義者である、と僧侶の口から言わせることにしたのだろう。もっとも、僧侶たちが、本当にダライ・ラマ14世のことを、分裂主義者であると思っているかどうかは、ドニュ住職の口ごもり方からみても明からだろう。

■こんな僧侶の会見からかいま見えるのは、中央政府がいくらダライ・ラマ14世を否定しても、文化財保護の名目で寺院保護、修復に大金を注いで懐柔策にでても、信仰を持つものにとっては、ダライ・ラマ14世への崇拝、忠誠はゆらいでいない、ということだろう。信仰とは、それほど強いものなのだ。特に、この自然の厳しい土地においては。

■ただ、チベット仏教をめぐる環境がこの数年、急激に厳しくなっているのも事実だ。今年春にチベット人権民主センター(本部・インド)が発表した「チベット人権報告」によれば、目下チベットの監獄には僧侶を中心に116人の政治犯が収容されており、昨年だけでも26人が逮捕された。報告によれば逮捕者は宗教上信仰上の発言を行ったが、当局はこれを「国家安全を脅かす刑事犯」と説明している。

■また今年1月に施行された「チベット自治区宗教事務条例」では、一切の宗教活動に当局の批准が必要となり、寺院の主権は基本的に政府機構が掌握することに定められた。さらに9月からは活仏(仏の生まれ変わりの高僧)の転生まで中国政府の許可制となる。

■寺院に対して政治学習が義務づけられ、シガツェのタシルンポ寺の若い僧侶も「月曜から金曜まで毎日2時間半、三つの代表論などの政治学習をしています」と話す。政治学習は「僧としての出世に関係ある」そうだ。

■こういった中央政府のチベット仏教に対する管理強化は、信仰の自由を阻害しているだけではなく、チベット仏教そのものを変質させるおそれがあるのではないかと思う。たとえば、活仏の許可制度など、宗教的伝統からみれば、どう考えてもおかしい。当局から「活仏証明書」を与えられた活仏に宗教的権威などあるのか。政治学習の成績で出世した高僧を人々は尊敬し崇拝できるのか?そんなチベット仏教がひとびとの心の支えになり得るのだろうか。

■チベット仏教を変質させ、人々の心を信仰から離れさせる。同時に、漢族式の物質文明で人心をとらえ、中央によるチベット統治を強化する。それが、中央政府の狙いなのかもしれない。しかし、それは宗教を基盤にしたチベット文化、チベットそのものの存在の消滅をまねくことになるだろう。チベットで宗教の求心力が失われれば、残るのは中国共産党運営の観光地、ハイランド・パークでしかない。

■ドニュ住職が後のトラブルを顧みずに「ダライ・ラマ14世に一刻も帰ってきてほしい」と口にしてしまったのは、チベット仏教が過去にないほどの危機に直面しているという焦りからかもしれない。チベット仏教の象徴、スピリチャル・リーダーさえ、帰ってくれば、この危機をなんとかできるのではないか、という一縷の望みを託しているのではないか。(つづく)

「チベットのあした②」への5件のフィードバック

  1. ワンダーフォーゲル、クスコからマチュピチュ。わたしはますます福島ファンです!
    >信仰が生まれるのは、信仰が必要とされるからだ。
    キリスト教が日本で400年以上あんなに頑張っているのに、信者が1%くらいしかいないのは、そういうことでもあるんですね。
    >文化大革命時の破壊活動はすさまじく
    平和に対する罪じゃなくて、文化破壊に対する罪ってないものかしら。
    >ちょっとむかついた私が今度は
    福島さんも勇気ある!ご住職、福島さんともども安全を祈ります。
    >ものすごく漢族的な政治学、社交術なのだが、本音の要求をいわず、・・・・ウソつきは頭のいいことの証みたいな価値観がある漢族文化で成り立つあうんの呼吸が必要。
    漢族じゃなかったら、このあうんの呼吸を共有する必要ないはずですね。

  2. 「祖国統一を阻む分裂主義者」、中国当局はそう表現しました。
    しかし、多くのチベットの人々の考え方に立って言うならば、中国共産党は、「信仰と思想の自由を蹂躙する全体主義者」とも言えるのではないでしょうか。
    では、ベトナム国境に軍事力を終結させていることを、中国共産党はどのように表現するのでしょうか。ベトナムも「祖国統一を阻む分裂主義者」だとでも断言するのでしょうか。

  3. こんばんわ。
    サキャ寺住職にたいして中央政府が何もしないことを祈ります。
    そんな心配が頭をよぎる中国政府の怖さを感じました。
    福島さんは大丈夫ですか。《これが現実ですね》
    きれいな景色に隠れているくらい部分を見た感じです。
    チベットの人々の心のよりどころである『ダライラマ14世』のことを、
    『祖国統一を阻む分裂主義者』といわせる中央政府の目的は?
    テレビで放送されるチベットは、中国共産党のおすすめ観光地ですね。
    だんだんチベットの素朴さがなくなっていくのが悲しいですね。
    チベットの人々のこれからはどうなるんでしょう。

  4. おはようございます。
    つくづく、中共って、器が小さいですねぇ…
    「小日本」にも目の色変えて食ってかかってきますが、もう少し、大人(おとなではなく)ぶってもいいんじゃないかなあと思います。
    そんなコトしたら自爆なのはわかっていますが(苦笑)
    私は、共産国家が謳う共産主義も宗教だと思っています。
    だからこそ、あんなんなんだと納得しています。
    巻き込まれる方はたまったものではありませんが

  5. ドニュ住職の勇気がチベットに幸せをもたらすといいのですが。
    ところで、最年少の政治犯として連行された真のパンチェン・ラマことゲンドゥン・チューキ・ニマ少年の消息はどうなっているのでしょう。「分裂主義者から保護している」というのが中国政府の見解のようですが、今年成人したはずですし、アウンサン・スー・チー女史以上に人権問題として取り上げられるべきだと思います。

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